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2017年12月30日土曜日

今年最後の公演、noyR『ニーナ会議』が無事に終わりましたー! よいお年をー!!

29日の最後の公演も無事に終わりました!
観に来てくださったみなさま、
本当にありがとうございました!
ああ、気がつけば。
もう明日が31日でございます!!

今年最後の公演、noyR『ニーナ会議』
上演が終わると振り返って。


そして美しすぎる衣装の引田さんが衣装のメンテナンスをしてくださいます。
ありがとうございます。
アイロンをかけている姿も美しい。


初日が開けると役者陣がドミトリー泊でございます。

キッチンが充実。




ものすごい勢いでバラシを終わらせ、

打ち上げへー!!!




新しいnoyRの公演でございました。
いつもよりちょっと人数が多かったり、
生演奏だったり。
ピアノの演奏をしてくださった黒木さんのおかげで、
生演奏の楽しさを味わいました!
とても刺激的でございました。
ニーナのことも好きになれましたしね。
素敵なチームでした。
また再演ができますようにー!!


それでは、みなさま。
観に来てくださったみなさま。
ワタクシと一緒に創作をともにしてくださったみなさま。
今年も本当にお世話になりました。
いろんな場所で、いろんな方に助けてもらって今年も無事に終えられそうです。
感謝です。
ありがとうございます。
愛を込めて。
みなさま、よいお年を。

2017年12月29日金曜日

初日が無事にあけましたー!

noyRの『ニーナ会議』の初日が無事にあけましたー!
観に来てくださったみなさま、本当にありがとうございましたー!
ニーナ会議のテーブルの上でございます。
みんなでデコってくれました。


そしてアップのとみさん。


ふりかえるみっちー。


あ、みつこさん。


打ち上げで差し入れのシャンパンをあけるきしもんとともなさん。


明日のお昼13時は満席となっております。
夜の18時はまだお席がございますのでぜひぜひー!!
ニーナたちの会議を観に来てくださいませー!

2017年12月28日木曜日

大木実奈 みなちゃん

役者紹介、最後はnoyRのみなちゃん。
オリジナルニーナ。


2014年から毎年、noyRのみなさんとは年に1度は一緒に創造しております。
みなちゃんはPlant Mにも客演で出演してもらったこともございます。
『君ヲ泣ク』風組さんの三女でした。
それを機に、出口家ドミトリーの常連となっております。


みなちゃんは破壊的絶望的破滅的。
だから、微かな光が見えるのであります。
奈落の底で穴を掘る。
だから、見上げることが出来るのであります。
生半可じゃ這い上がれないから、
とことん絶望を味わうのであります。
他の何にも替えられない、一粒の希望を見つけられるのだと思うのです。

ある日の稽古、

「わたし・・・発見したんです・・・これ、沼だな、と。記憶の沼にこのニーナはズブズブのズブズブのズブズブで・・・」

ほとんどズブズブしか言っておりませんでしたが、
彼女は何かを見つけたわけであります。
役者が何かを発見する度に、
物語は広がり膨張して世界を作るのだと思うわけであります。

2017年12月27日水曜日

若葉町 WHARF への行き方

WAKABACHO  WHARF への行き方です。
いくつか行き方があるのですが、
ワタクシは黄金町から行くのが分かりやすくて好きです。

なので、黄金町からの行き方!

横浜駅から京急本線の黄金町で降ります。
横浜駅から3つ。
普通しか停まりません。
うっかり急行に乗って上大岡まで行ったことがあります。
お気をつけくださいませ。

黄金町を降ります。
改札はひとつです。

改札を出てすぐ右を向きますとファミリーマートが見えまして、信号があります。

 信号を渡ります。


 横断歩道を渡ります。渡ってからの信号の名前を見ると、太田橋北側。

 橋を渡ります!


渡る橋の名前はおおたばし


橋を渡って左手に曲がり、川沿いを歩きます。


しばらく川沿いを歩くと、右手にガソリンスダンドESSOが見えますので右に曲がります。


ESSOを通りすぎてまっすぐ歩くとすぐに、まいばすけっとがあります。


そのまままっすぐ歩くとすぐに、


WAKABACHO  WHARF の入り口です。
まいばすけっとがすぐ裏側にある、なんて便利なのでしょう。
黄金町から徒歩5分弱で着きます!
迷いません!
WAKABACHO  WHARF への行き方でした。

2017年12月26日火曜日

大道朋奈 ともなさん

はい。
三人目のニーナ3はともなさん。





LINEの名前が、ともにゃ。
立ち姿が、すっくと伸びて咲くお花みたいでございます。
凛としてます。
丁寧でしっかりさん。
ともなさんがクレジットカードのポイントを活用してスタバを利用している
という情報を聞いたとみさんは、

「えええー! そんなことができるのー!?」

と驚愕の叫ぶをあげましたとさ。
とみさん、できるよ・・・

普段から丁寧だからか、
ともなさんは舞台上でも丁寧です。
ひとつ、ひとつ、きちんと積み重ねます。
だけど大人しいわけではありません。
真っ赤な情熱が見えるのであります。

燃え盛る炎に焦がされたこともあったのかなぁ、
なんて勝手な想像をしたりするのであります。
それを乗り越え、今があるのかなぁ、なんて。

自分の激しさを認めた、だからこその、丁寧でしっかり。
ひとつ、ひとつを、なんとなく受け流すのではなくて、
自分の中にきちんと落とし込む、そんな風に思えるのです。
大地に、しっかり立つ女の子でございます。




2017年12月25日月曜日

平井光子 みつこさん

さて、今日のご紹介は重力/Note所属の女優さん、平井光子さん。
みつこさんとお呼びしております。
今回は今までとは違って女子が多いので、
休憩時間も賑やかでございます。
ワイワイしているそんななか。
コスモスのように微笑んでいるのが、みつこサン。 才女でございます。
穏やかな微笑み、なんとも慎ましい佇まい。
しっとりした大人の女性でございます。

ええ、間違いなく。
ある一面においては。

しかし。
同じ時間を一緒に過ごしておりまして、
気がついたことがあります。

み、、、みつこサンは・・・
地球人じゃないな!?

なんとも奇妙な生命体でございます。
地球人とは違う別のパワーを持っているのです。
とても小柄なのに、ひとりでいる時は小さく見えない。
体のまわりに地球外生命体が持つ独特の異空間を携えているようでございます。
みつこさんはニーナ2。
軽薄な言葉が多いのに、みつこさんが話すとなんとも言えない愛らしさが乗っかります。
幼子に見える瞬間があります。
それがなんとも言えない愛らしさ。
かと思うと。
呪いの言葉に聞こえる瞬間があったりする。
彼女自身の葛藤が、言葉に乗っかっていくのだろうかと思うのであります。
とても興味深い。

唐組Experience その4


唐の体と書いて、「唐体」読み方は、カラタイ。
もちろん、私が勝手に作った言葉。
これは、まるで唐さんのように演じるということではない。唐さんを真似るということでもない。真似っこはやり尽くさなければ本当にただの真似っこだ。10年も20年も真似っこをやりつくした先に、唐さんとのズレを発見することが出来た役者が「唐体」を習得出来るのだろう。

「久保井流唐体」
「稲荷流唐体」
「辻流唐体」
「藤井流唐体」
「赤松流唐体」

そして「唐体」を持った久保井さんが、唐さんに直接の演出を受けていない劇団員たちに演出をつける。
すると「唐体」はまた次の世代に繋がることが可能になる。
しかも、変化を遂げながら。
私は変化こそが重要だと思う。特権的肉体のことを考えると、唐体を持ちながら自分のオリジナルに行き着かなければ、「これは私なんだから」と断言出来ない。時代が移り変わるならば、人間ももちろん移り変わる。

「岡田流唐体」
「清水流唐体」
「福本流唐体」
「河井流唐体」
「福原流唐体」
「大澤流唐体」
「川口流唐体」
「加藤流唐体」

なんて。言ってみたりなんかしちゃって。
人は変わっても、唐の肉体は変わらない。
一代で終わらないそんな劇団があってもいいんじゃないかと思う。
唐さんは今は現場にはいないはずなのに、やっぱりそこにいる。
紅テントが出現して消えるのと同じように、唐さんの体を継いだ劇団員たちの中に、やっぱり唐さんがそこここにいる。ということは、唐組の演出は、演出家には出来ないのだ。他の団体が実験的に唐さんの戯曲を解体し取り組んだり、上演したりするのは、それぞれ各団体の信念と思想において自由に上演すればよろしいと思う、が、こと唐組に関しては、唐組の俳優で、「唐体」を習得した役者でなければ次の世代に受け渡すことが出来ない。という、これも、私が勝手に思う唐組の在り方に沿って考えていることだから、実際の唐組の劇団員がそう思っているかどうかは別であるし、そうでなければならないと言いたいわけではないことを明記しておかなければならない。

「唐組の役者の言葉が一番よく届く」という理由のひとつに、この「唐体」があると思う。真似っこだけをするなら、「唐風」だ。「唐体」になるために、あの稽古を続けるのだろう。「唐体」以外に重要なことがもうひとつ。
リアリズム。
唐組と真逆のように思われがちだけれど、久保井さんの演出は徹底したリアリズムだと思う。それが唐さんの戯曲の言葉と、「唐体」のインパクトで奥に隠れているけれど土台はリアリズム。リアリズムが土台にないと、「唐っぽい」だけになる。大きく表には現れないけれど、徹底したリアリズムと「唐体」が、

「唐組の役者の言葉が一番よく届く」

と、言わしめるのだと思う。

言葉など、目には見えないのによく届くとは妙な表現だ。
しかし届く。
紅テントのように、「ない」のに「ある」。
やがて、「ある」のに「ない」。

夏の終わりから冬の始まりにかけて、紅テントとともに旅をした。
振り返り辿ってみたところで、やっぱり、

「あれ? 本番……やったっけ?」

と言ってしまうけれど。
発見ばかりだった。
私自身の創作とは違う唐組の中に入って、唐さんの戯曲の中に入って、観察して考えて何かを発見すると、同時に私はわたしを発見しているのだと気がつく。こんな風に考える自分がいたのかと、発見する。

これは私が見つけた。
言ったとたんに疑問に思ってまた考える。
「ない」ものと「ある」ものを考え続けた。
それは誰が見つけた?
私だ。
では、私とは何だ?
そんなものあるのか?
いや、ない。
いや、ある。
紅テントが畳まれて、何もない空き地に風が吹く時、そんな声が聞こえる。
誰の声か分からない。

いや、あるよ。
裂いて開いて取り出しては見せられないけど、

ある。

新たな発見を携えて、そしてまた私は私の創作に没頭するのだろう。

夏の終わりから冬の始まりにかけて、
ともに旅をした全さん、熊さん、重さん、美仁音さん、沙紀さん、悟巳さん、そして、唐組のみなさんに愛と感謝を込めて。

2017・11 樋口ミユ


富岡英里子 とみさん

とみさんです。
去年はとみさんの富岡英里子プロデュースでご一緒いたしました。
キャスティングが決まった時に、
おお、とみさんがいるっ!
と驚きまして。
noyRのキャスティングはプロデューサーのつんさんの采配でございます。
それもnoyRの楽しみのひとつだったりします。
パッと華やかな空気をまとっております。
ちゃきちゃきした空気もまとっております。
でもたまに、ドジっ子の空気も醸し出したりしております。

「ひぐさんも結構おっちょこちょいなの、私知ってますよ」

と、よく人のことも見ております。
そして言葉に敏感。
なんでこの人物はこんなことを言うのだろうかと敏感。
なぜ自分はこんなふうに感じるのだろうかと敏感。
だから人が投げかける言葉をがっつり受け取る。
舞台の上でやりとりする言葉をすかさずキャッチする。
受け取るミットがしっかりしているんだと思う。
今回は、ニーナ1。
オリジナルニーナ、ニーナ1、ニーナ2、ニーナ3と、
4人のニーナが出てまいります。
そのうちの、ニーナ1。
ニーナたちの会議の中で、一番自由に好き勝手なことを言ってそうで、
なのにとみさんが演じると受け取るミットのおかげで、
実はニーナ会議をまとめていたりするのであります。
全体の大きな流れを、自然と担うのであります。
おお、ミット力。
それは今回発見したとみさんの一面であります。

2017年12月24日日曜日

唐組Experience その3


唐さんは感覚的。とも、よく聞く言葉。
でも台本と稽古を見ていて思う。ものすごく緻密じゃないかと。でもその緻密さは、頭で考えた細かいあらすじや伏線、布石、そんなものではないような気がする。ふと思う。私の人生って緻密だなと。今、起こっている現状は、必ず過去からの影響で、そして現在は確実に未来に影響する。そうなのよ。人生って緻密。でもそれは私が意図して作った緻密じゃない。事実は小説よりもナントカ。誰かのどこかのいつかの現実を書き写しているような、そんな緻密さを感じるのだ。もしかしたら唐さんの脳内は、iCloudのようなものに自動的にアクセス出来るんじゃないかと思う。

iCloudならぬ、人類Cloud。人類が誕生してから今までのありとあらゆる人々の記憶と歴史と経験が詰まったアカシックレコードみたいなものに。そこに自動的にアクセスして、複数の人の人生を聞き取って戯曲を書いている。そんな気がする。では、唐さんが夢遊病のように、イタコのように聞き取って自動手記のように書いているかというとそうではないと思う。一幕で灰牙と田口がカンガルーと蛙の話をするシーンがある。なぜこの話をするのか初めは分からなかったが、二幕の田口のセリフ「他種多族のバリアを超えて」と言うその時、やっとその意味が分かる。手首を切ったスイ子がそこにいるのだ。スイ子こそ、他種多族のバリアを超えてカミソリ堤防に飛び込んだ、他種多族を超えた存在。見えない自分の所在を掴むために、生身を少し傷つけた痛みで「私」を知る。「これは私だ」と断言出来る決意が重要なのだ。この物語の登場人物の中で、唯一自らが望む一歩を進む生き物なのだ。痛みと傷を伴って。
動物の行動は、それを見て人が勝手に感情を乗っける、ストーリーを乗っけると田口は言う。物語を、夢を作るのは意思を持った人間でしかない。
人類cloudからあらゆる情報を聞き取り駆使して、それを使って唐さんは物語を作っているのだろう。

そこで特権的肉体論である。
訓練された普遍的な肉体としてではなく、各役者の個性的な肉体が舞台上で特権的に語り出すことを目指した唐さんの演劇論だ。特権的肉体と聞くと、ものすごく特異な役者をイメージしてしまうが、そもそもフツーな人間などいない。人はそれぞれ特権的である。これはずっと役者のことを言っているのだと思っていたけれど、私はこの言葉は戯曲に当てはまるのかもしれないと思う。戯曲が、特権的肉体を持つのだ。人間が唐さんの戯曲を、その人の体と肉声を持って発すればこれらの言葉は立ち上がる。戯曲が肉体を探している。だから読んでも分からないわけだ。文字は肉体を持たない。「ない」ものを「ある」にするために肉体が必要になる。肉体を持つからこその特権的な戯曲。血と肉を通して、戯曲が立ち上がる。と、思うと、おや、ぐるんと一周回って、結局は役者の特権的肉体論と同じことなのかもしれない。読めば分かる。聞けば分かる。では、誰がどんな風に上演しても良いということになる。そこに人間がいれば、この特権的肉体戯曲は立ち上がるわけだから。
きっと、そうなのだろう。

しかし、である。
唐組が、なぜ唐組なのかを稽古を観ながら考えてみる。
唐さんの戯曲は、肉体を持った人間が発すれば立ち上がる。私が勝手に考えたことを基準にすると、「唐組」でなくてもいいではないか、という考えが浮かび上がる。けれどやっぱり思うことは、しかし、である。
唐さんの戯曲を上演している公演はたくさんある。もちろん観たこともある。
その時私は、何かが足りないと感じたことを覚えている。同じ唐さんの戯曲なのに、唐組と何が違うのだろうとその時は考えを詰められなかった。
唐組の上演後の宴会でよく聞く言葉がある。
「やっぱり唐組が一番、唐さんの言葉がよく届く」
イイ言葉だけど、それって言葉のマジックだと思う。
「やっぱ唐組だね」である。
なぜ、唐組だから言葉がよく飛んでくるんだろう? 唐さん自身が舞台に立っている時は、出演も本人、演出も本人、そりゃそうだろうと突っ込むことすら無粋だ。しかし、今はそうではない。唐さんに直接演出を受けていない若い子たちのほうが圧倒的に多いのだ。それでもなお、なぜ「やっぱ唐組だね」になるのか。唐組を、唐組たらしめているものは何なのか。

以前からずっと思っていたことがある。
歌舞伎や能や狂言には、型がある。
唐組にも、型がある・・・とは断言しないけれど、型らしきものがあるんじゃないかとずっと思っていた。「型」とは、模倣しやすい。歌舞伎だって能だって宝塚も真似っこしやすい「型」がある。しかも「型」は美学になる。もちろん、唐組も真似っこしやすい。だから思わず「型」と言ってしまうのかもしれない。
「唐組には型がある」と、自分で口に出して言ってみてちっとも納得出来なかった。そして私はひとりで頭をフリフリまた考える。

でも、でも、でも違うのよ、「型」っていう感じじゃないのよ、どう言えばいいの? うーん、この感覚を表すぴったりの言葉が見つからないわ、と。

誤解を招きそうなので言っておこう。唐十郎は別に古典ではない。
唐組を唐組たらしめていることは、この型らしきもののことを考えると見つけられるんじゃないかと思った。だけど「型」というほどカッチリしたものではない。でもあるんだよなぁと考える。
稽古を観るまでは見つからなかった。
やがて稽古を観続けるうちにふと思った。
ぴったりくる言葉が見つからなければ、作ればいいんだ。
だけど造語を作るためには、説明出来る理由がいる。
というか、唐組を唐組たらしめていることが何なのかを見つけ出せたら自ずと造語を作ることが可能だろうと思った。

それもある時、突然に「分かった」。
久保井さんが稽古で演じた時、久保井さんの指先に唐さんがいると思った。でも唐さんじゃない。久保井さんだ。でも久保井さんの中に唐さんがいる、と私は思ったのだ。

「俺、唐さんがどうやってセリフ言うのかとか、どう動いているのかとかずっと見てたもん。そうじゃないってダメだし食らった時も、何が違うのかとか考えて、唐さんが“こうだろ”とか言うの見て、唐さんがやるちょっとしたこととか」

さらに稲荷さんも言った。

「俺たちは、染み付いちゃってるからさ」

二十代の頃、戯曲を書く時に私はとことん唐さんの言葉を真似っこしたことがある。初めて唐組を観たあとに唐さん風にやたらと真似た。ひたすら真似っこしたあとで気がついた。当たり前だけれど私は唐さんではないので真似しきれないところが見えてくる。この真似しきれないところが、私のオリジナルなのだと思った。私は唐さんじゃないし、唐さんは私でもないと知ると、その時から私は私の戯曲を書き始めた。

きっと久保井さんも、舞台上の唐さんを真似たんだろうと思う。真似て真似て、唐さんと自分は違う人間だと気がつき、しかし唐さんを宿したまま自分のオリジナルを発見したのだと思う。そこではたと気がつく。
唐組を唐組たらしめているのは何なのか。
やっぱり唐さんなんだ。
唐さんの肉体を持つことなんだ。
と、久保井さんを見て思った。
「型」ではない。

「唐の肉体」

そこでぴったりくる造語の話に戻ろう。

仲道泰貴 みっちー

noyRのメンバーのひとり。
仲道泰貴くん。
みっちーと呼ばれております。


ワタクシの写真の腕が悪いのです。
本当はもうちょっと男前なのに、ごめんよ、みっちー。
石垣島出身。

超適当に生きているワタクシが、ハラハラする人でございます。
みっちー、大丈夫? え? 本当に大丈夫? といつも突っ込みます。
あまりの人の良さに、騙されてお金を取られたりしないようにと願います。
でもきっと大丈夫。
石垣の大自然の神々の加護があるのだと信じたい。

今年の大阪のDIVEプロデュースの公演で沖縄の方言指導を遠隔でしてくれました。
ありがとう。

今回はトレープレフ。
そしてニーナダンスを担当してくれております。
本当に素敵ニーナダンスでございます。
noyRと一緒にお芝居を創るようになって、3年か4年くらい経ちますが、
みっちーはよく、

「あ、分からないです」
「分からないです」
「えーと、分からないです」

と、言うのだけれど。
ニーナダンスを考えてきてくれた時に、
実はそんなに「分からない」わけではないのだなと思ったわけであります。
説明する時にどの言葉を選べばいいのか「分からない」だけなのだなと。
あまり自分にはこだわりがないような、なんでもいい風を装うけれど、
本当は自分が決めたことしかしたくないという隠れ頑固派であります。
でも何を決めたかを、自分でもたまに分からなくなる不思議派でもあります。
そんな時は、 多くの情報じゃなくてシンプルな情報だけを見つめると、
みっちーの集中力が高まるのだなと、気がついたのであります。


2017年12月22日金曜日

唐組Experience その2


届いた台本を開く。
一度読む。何も考えずに。わからない言葉はそのままに読む。
二度目は知らない言葉の意味を追いかけるために辞書やパソコンを横に置いて読む。
三度目こそは。何かが掴めるだろうと、焦りながら読んだ。
焦ったのだ。
何も分からなくて。
おかしいわ。そんなはずはないわ、と自分を励ましつつ、四度目読んで愕然とする。やっぱり、何にも分からない。これなら本番を観た時のほうがいろんなことを思い、思考を展開し、想像を飛ばすことが出来たのに、戯曲だけを読んだら絶望するくらい何も分からないなんて、そんなことってあるんですか!
五度目はほとんど放心状態で読んだ。そんな状態で何も分かるわけがない。
そして放心のまま稽古場へ。
そこで、役者の声を聞く。
役者が発するセリフを耳にする。
私の放心は解ける。
“読むよりも観たほうがよく分かる”とは唐さんの本のことを誰かが話す時によく言われる。この「分かる」とは何についてのことなのだろうと不思議に思っていたけれど、ある瞬間に、「分かった」という感覚が生まれた。

稽古に行く前に戯曲を読んで、稽古を観て役者を観て、家に帰ってもう一度読む。それを続けて稽古が始まってから1週間経ったある日に突如、「分かった」のだ。難解だとよく言われるけれど、全て書かれているじゃないかと思った。
特に『動物園が消える日』はストーリー自体が分かりやすいというのがあるのだろうけれど、なぜここにこのセリフがあるのか、なぜこの登場人物がこれを言うのか、ストーリーの向こう側を見たと言えばいいのか。
「見た!」と言っても、唐さんが思った脳内が見えたと言っているわけではない。自分の中で一本道が見えたのだと思う。そもそも自分以外の脳内が分かるわけなどない。しかし、訳がわからないけど面白い、ではないのだ。訳があるから面白いということだったんだ。

私が一番初めに引っかかったのは、ミニーマウスのスイ子だった。
どうしてミニーなの・・・? 
ゴリラの着ぐるみを着た田口と、動物被り物つながり・・・? 
たぶん、ミニーという誰もが知っている着ぐるみを使って、「ない」ものを「ある」にしたのだ。
着ぐるみの中の、「私」
スイ子だけではなく、「私」たちにはみんなアバラという檻が体の中にある。では、その檻の中に何が住まっているんだろう? 着ぐるみを着ることで、逆に自分の生身を思い出す。自分の体に違和感を感じるために、着ぐるみは必要だったのだ。本当はいつだって肉体という着ぐるみを着ている。明らかに見える着ぐるみのミニーやゴリラの田口がいることで、見えない着ぐるみを着ている他の登場人物のことが分かってくる。サムは探偵の着ぐるみを着て、オドは妊婦の着ぐるみを着て、チキータは看護婦の着ぐるみを着ている。そして彼女たちは以前着ていたサニーの着ぐるみをもう一度着たい。飼育係たちは今まさにその着ぐるみを脱がんとしている。そして台場はカバヤの重役の着ぐるみ。

よくよく考えれば見えない着ぐるみばかりを着ている人間たちがこの街を歩いている。着ぐるみとは、自分が理解できる範疇の自分と言ってもいいと思う。あるいは顕在化された自分。スパイの着ぐるみを着ているオリゴはさらにもうひとつの着ぐるみを着る。灰牙に対して時計を渡す「女」の着ぐるみ。それはとてもシンプルに言えば、誰も彼も人間の間で生きるなら「本心」を隠していると言えるのかもしれない。ただ、それだけでは終わらない。「本心」だと思っている「自分」の中にはさらに檻がある。自分さえも見知らぬ動物が自分の中にいる。何重にも見えない着ぐるみを着て、それが自分であるという錯覚さえ起こすが、自分のアバラの檻の中に何が潜んでいるかを誰も分からない。人間という動物は見えない着ぐるみで着膨れしている。なのに、ドリちゃんはむき出しだ。現実的な檻の中に入れられていたとしても、ドリちゃんはドリちゃん以外の何者でもない。それどころか、水にさえ溶ける(サニーランド勤務の人々にとってはドリちゃんは水に溶けても存在しているという希望である。これも、ないのに、ある)
飼育係たちは、次の仕事の着ぐるみをしぶしぶ着るしかないとすでに用意しているのに、着ぐるみなど着ないと断言する新夜がいる。それをさらに後押しするように灰牙が現れる。灰牙は自分のアバラの檻の中に何があるのかを知っているのだろう。そんな人間は、人間社会にとって、「やっかい」だ。そんな部下を持っちゃぁ足立係長も大変だ。馬鹿じゃぁなぃと叫んだけれど、人間の世界ではきっと馬鹿の部類に入る。しかしそれを誰が笑える? 笑うどころか、灰牙の、「ドリちゃんはそこにいる」というドリームに、みんな希望を見る。儚く消えるだろうTDLの1日のように。消えるとしても、人々は夢見たい。灰牙のアバラの檻にはきっと何も住まっていない。自分には何もない、ということを灰牙は知っている。だからいつでもその檻の中に入れられる動物を探して飼育し、さすらうのだ。一瞬、そこにオリゴという理解不可能な生き物が入り込んだことはあっただろうが。

そう、オリゴだ。なんとも困った女。
最初、読んだ時にはオリゴの存在がふわふわしていて掴みきれなかった。オリゴって何だろうと考えても、台本のどこにも繋がらない。いや、ストーリーは分かる。企業スパイとして灰牙に近づいた。とてもシンプル。そんなあらましのことではなくて、オリゴという人間が分からなかった。半ば諦めたように台本を捲っていた時に、ふとサムのセリフが目に止まる。

「なんでもやるわ、今じゃ」

そしてスイ子のセリフが目に止まる。

「抜けられないです!」

はっとした。
オリゴを知ろうと、オリゴのことばかりを見ていたけれど、オリゴを知るためにはサムとスイ子を考えればいいのだと気がつく。
正体を隠し任務を遂行するサムは、まさにサニーランドでもぎりの四人娘として働いていた頃のオリゴそのものだ。
TDLの組織から抜けられないために自分の存在と恋心を明かしてはならないスイ子は、灰牙の前では本心をひた隠す、まさにカバヤに勤めるオリゴそのものだ。オリゴという女は一筋縄ではいかない。だってサムとスイ子、二人分の女の性質が住まっている。オリゴはスパイとして灰牙に近づき、ハニートラップ仕掛けるはずが、その後いつ、本当に恋心に変化していったのか、それともそれさえもハニートラップなのか、分からないままだ。きっとオリゴ自身にさえ、判断つかないのだろう。オリゴもまた、アバラの檻の中に何が住まっているのか自分でも分からないまま姿を消す。
分からないからこそ姿を消すのかもしれない。

ラストの屋台崩しのあのオリゴは、実際のオリゴではなくて、灰牙にとってのオリゴなのかもしれないと思う。とうとう飼いならすことの出来なかった女。ドリちゃんやあらゆる動物を飼いならすことが出来たさすらいの飼育係り灰牙は、たった一人の女を飼いならすことが出来なかったのだ。あれは、オリゴが夜間飛行を持ちながら外界をさすらっているのではなくて、灰牙のアバラの檻がさすらっている様なのだろうと思う。もう自分の手の中には「いない」オリゴを、自分の中にのみ「ある」ものにする、それこそドリームだ。
灰牙が「ない」ものを「ある」にするドリームを見させるTDLならば、台場は「ない」ものは「ない」と現実を直視させる管理職だ。夢はいつだって現実にぶち壊される。そんな台場さえ、一瞬はミニーに夢見るのだが、すぐに夢は跡形もなく消える。

ここに登場する男たちは、実は誰もかれもシンプルだ。自分の思ったことを突き進む。着ぐるみを来て内側に本心を隠していた飼育係たちも、新夜や灰牙に触発され「ワシ」になる。反対に、女は誰も彼も複雑だ。この物語は女によって複雑になり、女が振り回してる。なんとなく、きっとドリちゃんも雌なんだろうな、なんてことを考える。手に入る女ってすぐに飽きちゃうけど、手に入らなかった女ほど心の傷になって、ぐいっといつまでも痛みを伴って残る。痛みがある間は、「ある」になるからだろうか。

さて、これは私の中の道筋である。唐さんがこう考えたかどうかは知らない。
それは重要ではない。観た私が何を感じ取るかが重要なのだ。

岸本昌也 きしもん

はい。
本番が近づいて参りましたので!
役者紹介でございます。

岸本昌也くん。
きしもんと呼ばれております。
役者でもあるし、デザイナーでもあるし、
神楽の舞手でもあるし、奏者でもある。
そんで、身体表現のパフォーマーでもあったりするのでございます。
多才かよ、の、きしもんでございます。
アカデミーを修了して以来、
年に1度はきしもんと創作しているここ数年でございます。


今回のきしもんは、トリゴーリンでございます。
んまー、ベストの似合うこと似合うこと。

きしもんは物腰柔らか。
はんなり。
なんでも受け入れるけれど、流されるわけではない。
自分の軸はブレさせない。
それは頑固とも言う。
けれど頑なではない。
執着はない。
あ、その方向ではないのか・・・・・・
と気付くと、考え方をするりと変えて発展させる。
考える→試す→回視→考える→試す→回視。
急激な変化というよりは、
少しずつ進んでいつのまにか変わっていく。
多才かよぉ、といろんな人に突っ込まれるけれど、
実はコツコツやっているのであります。
稽古までに何を考え、
稽古で何を試し、
稽古で何を獲得するのか。
それをひたすらコツコツと。
そこにいる、ということが自然で、
そこにいる、ということそれ自体が魅力になる。

2017年12月21日木曜日

唐組Experience その1

誰に頼まれたわけでもないけれど、書いてしまうのであります。
長いのでいくつかに分けてアップしますー。
唐組の体験を備忘録として。



唐組Experience

2016年11月。

『荒地に立つ』の打ち上げ。時刻は終電も間近だったと思う。

「稽古をどんなふうにしてはるのか、見てみたいです」

思わず溢れた私の言葉を、久保井さんはひょいと受け取りさらりと答えた。

「じゃあ来年の秋公演、出てよ」
「え? え? でも、私、役者じゃないので、あの、演助のほうが、あの、」
「うん。演助もだけど、で、ちょっと出て」

でも、いや、と口の中で言葉がモゴモゴしているうちに、一番最初に紅テントを観に行った時の記憶が弾ける。
がっちりメイクをした役者たちから靴袋をもらったあの衝撃。
受付でチケットを手渡してくれる時には、メイク道具がそこにあったりもした。
ああ、そうだったなと思い返す。
紅テントを知るには、一度や二度の稽古を見学したところで知ったことにはならないのだろうなと思った。参加するなら、まるごと参加するべきだろう。たぶん久保井さんもそう思ったから「で、ちょっと出て」なのだ。そんな話になるちょうど前日に、2017年の秋に予定していた企画がどうやら来年に持ち越しになるという連絡を受けて、秋がまるっと空くなぁと思っていたところだった。これが縁ってやつよ、と頭の中でもうひとりの自分が私に言った。

というわけで。
2017年、唐組秋公演『動物園が消える日』を紅テントと一緒に過ごすことになった。稽古の始まりは9月の初旬。もうすでに、8月中に何度か台本を読む日があったのだけれど、私は8月いっぱいまで島根県雲南市で公演をしていたので少し遅れての参加になった。

高円寺の駅を降りて少し歩き唐組のアトリエに向かう。1階が稽古場、2階が事務所、3階は衣装や小道具が積まれていた。アトリエで稽古をするのは1週間ほどで、それ以降はテナントを借りて、タタキ場兼稽古場に設えるのである。タタキ場兼稽古場はどうやら毎回場所が変わるらしく、今回は、以前スーパーマーケットだった場所に、稽古で必要な一切合切を持ち込む。冷蔵庫まで積み込んで。稽古はお昼の13時から夕方まで。それ以降は大道具、小道具、衣装などの“作業”を夜中まで続けるのである。一応、区切りは22時。たぶん、劇団員たちはその日の作業のメドがつくまで続けているのだろうなと思いながら自転車を漕いで帰る。ほぼまるまる1ヶ月、13時から稽古が始まるので、12時前に着いてみると新人の劇団員男子2人はもうすでに掃除を始めている。もう少し早めに家を出ても、やっぱりもうすでにいる。作業が詰まってくると朝まで続けることもあるらしい。日に日に、大道具が出来上がっていく。昨日はパネルだけだったのに、今日はそこに窓がついている。次の日には入り口のドアがつけられて、エレベーターも作り上げられていく。舞台そのままの場所で、稽古をするのである。

テントを建てる日の1週間ほど前に、“照明稽古”と呼ばれる日が2日ほどあり、稽古場で照明を吊り込んで稽古をする。音響はずいぶん早いうちに曲が入る。唐組はスタッフワークも全て役者がするのがデフォルト。音響や照明のオペレーションを一人の人間が通して担当するのではない。自分が出ていないシーンのオペを担当する。さっきまで音響操作をしていた役者が、さっとブースから出てテントの外側をまわって舞台へと登場する。そして自分のシーンが終わるとまたブースに戻ってスタッフの仕事をするのだ。
お……オドロキ……だから音響台本や照明台本には、ここから岡田、ここから樋口、と、そんな書き込みもある。稽古を始めた頃は蒸し暑く汗びっしょりだったのが、稽古場を引き払い、本番の場所となる神保町に移動する時には、肌寒い季節に移り変わっていた。稽古場はもとのガランとしたスーパーマーケット跡地に戻り、トラックは全ての荷物を積み込み走り出す。

そして何もないところにテントが建てられる。
製図、というテントを建てるためのラインを杭とロープで引き、天井になる大きなテントが広げられる。屋台崩しをした時に見える風景を考えて製図を描く。鉄のポールが6本。1本のポールを建てるのに男の子たち総出である。「よいしょ、よいしょ」の掛け声を、何度聞いただろうか。地面に寝ているポールを建てる。紅い地面がもっこりと動き出して、ポールの1本目が立ち上がり、さらに2本目、3本目、生き物が呼吸するみたいに紅いテントが生まれていく。
それぞれのポールの一番先に括り付けられた2本のロープを左右から微妙に引っ張り、まっすぐに建てる。地面には大きな杭が打ち込まれて、そこに引っ張ったロープを巻き、止める。ここまでに午前中いっぱいはかかる。舞台が設えられ、美術が立て込まれ、とりあえずそこで1日目が終わる。日没を過ぎると作業が出来なくなる。まさにお日様とともに、である。テントを建てている間に、女の子たちは楽屋テントを建て、地面に打ち込まれた杭が危なくないように布を巻く。丸太を括り付けるバン線なるものを作る。立て看板を作る。細々と、本当に細々と、だけどやることが山ほどある。

2日目は美術を最後まで立て込み、照明、音響を仕込み、楽屋テントの中を作る。いわゆる“鏡前”はボテと呼ばれる衣装ケースを机代わりにする。テクニカルと呼ばれるスタッフワーク、舞台上の役者の動きの確認を済ますと、本番と同じ時間にゲネが始まる。神保町の本番は3週間に渡った。その間に日々、気温は下がり続ける。さらに雨。台風。今年の東京公演はほぼ毎日雨だった。テントではカッパは必須だ。自分の公演ではいつも客席でお芝居を見ているのが慣れっこになっていた私は、本番でまたオドロキの光景を目の当たりにする。出番でない役者たちが、テントの隙間から本番を覗くのだ。上演を始めから終わりまで全て目撃しているのは、他でもないお客さんのみ。ただ、声は聞こえる。私はじっと目を閉じて、声だけで何かを掴みとれないかと試みる。そんな神保町の本番を終えて、今度は鬼子母神へと移動する。
テントは建てたならば、それを畳まなければならない。
本番を終えた紅テントは、今度はまるで眠るように地面に横たわる。
そしてあとに残るのは何もない空き地。

私は妙な感覚に陥った。
積み込まれたトラックと、何もない空き地を交互に見る。
そこにあったのに。
今はない。
と、思った瞬間に神保町での3週間の本番が夢になった。
あったはずなのに、なくなったのである。
私の記憶の中にしかない。演劇と同じだ。
とても簡単に言うなら、

「え? 本番って……やったっけ?」

空き地に吹く風を掴めないように。
でも、確かにあった。
はず。
建物の威力。目に映る刺激。目の前にあるもので、自分の記憶が辛うじて留められていることに気がつく。
それから鬼子母神でテント建て、畳み、静岡で建て、畳み、金沢で建て、畳む。
何度も紅テントが誕生する瞬間を見て、死ぬ瞬間を見る。
軽く冗談のように、

「もうね、神保町の本番が前、前、前世くらい昔に思えます」

と言ったりもしたけれど、案外本当にそう思っている。紅テントは繰り返される人生なのだと思った。それをぎゅぅっと凝縮している。だから私はこんなにもおぼろげな記憶しかないのだろうと。しかし稽古や本番で感じたことを、記憶を少しずつ辿って書き記してみようと思うのだ。