唐組Experience その3


唐さんは感覚的。とも、よく聞く言葉。
でも台本と稽古を見ていて思う。ものすごく緻密じゃないかと。でもその緻密さは、頭で考えた細かいあらすじや伏線、布石、そんなものではないような気がする。ふと思う。私の人生って緻密だなと。今、起こっている現状は、必ず過去からの影響で、そして現在は確実に未来に影響する。そうなのよ。人生って緻密。でもそれは私が意図して作った緻密じゃない。事実は小説よりもナントカ。誰かのどこかのいつかの現実を書き写しているような、そんな緻密さを感じるのだ。もしかしたら唐さんの脳内は、iCloudのようなものに自動的にアクセス出来るんじゃないかと思う。

iCloudならぬ、人類Cloud。人類が誕生してから今までのありとあらゆる人々の記憶と歴史と経験が詰まったアカシックレコードみたいなものに。そこに自動的にアクセスして、複数の人の人生を聞き取って戯曲を書いている。そんな気がする。では、唐さんが夢遊病のように、イタコのように聞き取って自動手記のように書いているかというとそうではないと思う。一幕で灰牙と田口がカンガルーと蛙の話をするシーンがある。なぜこの話をするのか初めは分からなかったが、二幕の田口のセリフ「他種多族のバリアを超えて」と言うその時、やっとその意味が分かる。手首を切ったスイ子がそこにいるのだ。スイ子こそ、他種多族のバリアを超えてカミソリ堤防に飛び込んだ、他種多族を超えた存在。見えない自分の所在を掴むために、生身を少し傷つけた痛みで「私」を知る。「これは私だ」と断言出来る決意が重要なのだ。この物語の登場人物の中で、唯一自らが望む一歩を進む生き物なのだ。痛みと傷を伴って。
動物の行動は、それを見て人が勝手に感情を乗っける、ストーリーを乗っけると田口は言う。物語を、夢を作るのは意思を持った人間でしかない。
人類cloudからあらゆる情報を聞き取り駆使して、それを使って唐さんは物語を作っているのだろう。

そこで特権的肉体論である。
訓練された普遍的な肉体としてではなく、各役者の個性的な肉体が舞台上で特権的に語り出すことを目指した唐さんの演劇論だ。特権的肉体と聞くと、ものすごく特異な役者をイメージしてしまうが、そもそもフツーな人間などいない。人はそれぞれ特権的である。これはずっと役者のことを言っているのだと思っていたけれど、私はこの言葉は戯曲に当てはまるのかもしれないと思う。戯曲が、特権的肉体を持つのだ。人間が唐さんの戯曲を、その人の体と肉声を持って発すればこれらの言葉は立ち上がる。戯曲が肉体を探している。だから読んでも分からないわけだ。文字は肉体を持たない。「ない」ものを「ある」にするために肉体が必要になる。肉体を持つからこその特権的な戯曲。血と肉を通して、戯曲が立ち上がる。と、思うと、おや、ぐるんと一周回って、結局は役者の特権的肉体論と同じことなのかもしれない。読めば分かる。聞けば分かる。では、誰がどんな風に上演しても良いということになる。そこに人間がいれば、この特権的肉体戯曲は立ち上がるわけだから。
きっと、そうなのだろう。

しかし、である。
唐組が、なぜ唐組なのかを稽古を観ながら考えてみる。
唐さんの戯曲は、肉体を持った人間が発すれば立ち上がる。私が勝手に考えたことを基準にすると、「唐組」でなくてもいいではないか、という考えが浮かび上がる。けれどやっぱり思うことは、しかし、である。
唐さんの戯曲を上演している公演はたくさんある。もちろん観たこともある。
その時私は、何かが足りないと感じたことを覚えている。同じ唐さんの戯曲なのに、唐組と何が違うのだろうとその時は考えを詰められなかった。
唐組の上演後の宴会でよく聞く言葉がある。
「やっぱり唐組が一番、唐さんの言葉がよく届く」
イイ言葉だけど、それって言葉のマジックだと思う。
「やっぱ唐組だね」である。
なぜ、唐組だから言葉がよく飛んでくるんだろう? 唐さん自身が舞台に立っている時は、出演も本人、演出も本人、そりゃそうだろうと突っ込むことすら無粋だ。しかし、今はそうではない。唐さんに直接演出を受けていない若い子たちのほうが圧倒的に多いのだ。それでもなお、なぜ「やっぱ唐組だね」になるのか。唐組を、唐組たらしめているものは何なのか。

以前からずっと思っていたことがある。
歌舞伎や能や狂言には、型がある。
唐組にも、型がある・・・とは断言しないけれど、型らしきものがあるんじゃないかとずっと思っていた。「型」とは、模倣しやすい。歌舞伎だって能だって宝塚も真似っこしやすい「型」がある。しかも「型」は美学になる。もちろん、唐組も真似っこしやすい。だから思わず「型」と言ってしまうのかもしれない。
「唐組には型がある」と、自分で口に出して言ってみてちっとも納得出来なかった。そして私はひとりで頭をフリフリまた考える。

でも、でも、でも違うのよ、「型」っていう感じじゃないのよ、どう言えばいいの? うーん、この感覚を表すぴったりの言葉が見つからないわ、と。

誤解を招きそうなので言っておこう。唐十郎は別に古典ではない。
唐組を唐組たらしめていることは、この型らしきもののことを考えると見つけられるんじゃないかと思った。だけど「型」というほどカッチリしたものではない。でもあるんだよなぁと考える。
稽古を観るまでは見つからなかった。
やがて稽古を観続けるうちにふと思った。
ぴったりくる言葉が見つからなければ、作ればいいんだ。
だけど造語を作るためには、説明出来る理由がいる。
というか、唐組を唐組たらしめていることが何なのかを見つけ出せたら自ずと造語を作ることが可能だろうと思った。

それもある時、突然に「分かった」。
久保井さんが稽古で演じた時、久保井さんの指先に唐さんがいると思った。でも唐さんじゃない。久保井さんだ。でも久保井さんの中に唐さんがいる、と私は思ったのだ。

「俺、唐さんがどうやってセリフ言うのかとか、どう動いているのかとかずっと見てたもん。そうじゃないってダメだし食らった時も、何が違うのかとか考えて、唐さんが“こうだろ”とか言うの見て、唐さんがやるちょっとしたこととか」

さらに稲荷さんも言った。

「俺たちは、染み付いちゃってるからさ」

二十代の頃、戯曲を書く時に私はとことん唐さんの言葉を真似っこしたことがある。初めて唐組を観たあとに唐さん風にやたらと真似た。ひたすら真似っこしたあとで気がついた。当たり前だけれど私は唐さんではないので真似しきれないところが見えてくる。この真似しきれないところが、私のオリジナルなのだと思った。私は唐さんじゃないし、唐さんは私でもないと知ると、その時から私は私の戯曲を書き始めた。

きっと久保井さんも、舞台上の唐さんを真似たんだろうと思う。真似て真似て、唐さんと自分は違う人間だと気がつき、しかし唐さんを宿したまま自分のオリジナルを発見したのだと思う。そこではたと気がつく。
唐組を唐組たらしめているのは何なのか。
やっぱり唐さんなんだ。
唐さんの肉体を持つことなんだ。
と、久保井さんを見て思った。
「型」ではない。

「唐の肉体」

そこでぴったりくる造語の話に戻ろう。

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