さてさて続きです。
#1のグラビティロストの俳優さんたち✨
今回は連作で、#0はリーディングもあったので土台がありましたが、
どちらの作品も共通に出演している3名以外の#1の俳優の皆さんは、怒涛の怒涛だったと思います!!!
吏員…福重友さん(南河内万歳一座)
ゴリさん。気は優しくて力持ちを地でいく方でございます。
見た目の姿カタチはある意味とってもイカつい。
ゴリさんの中身を知らないと、ビクってなる人はいっぱい。
お名前は友じゃなくて、優じゃないかと思うくらいの優しい人。
屈強な体に、柔らかい心。
吏員という役はまさにそうなのだな。
でもこれは、私自身がそこまでわかっていなかったように思う。
ゴリさんが吏員だったから、そこに気がつけたのだ。
『げきじょうのひ』に登場する人々は、だいたい常軌を逸している。
フツーの人はほぼ登場しない。もっと細かく言えば、誰でも持っている常軌を逸した部分を誇張している人物が多い、と言えばいいだろうか。
かろうじて普通と言えるのが、この吏員だと思う。
ということを、本番を体験しながら私自身がようやっとそのことに気づいた。
稽古時間をもっと贅沢に取っていたらそれにもっと早く気づけたかな?
という反省もなくはない。
けれど、たぶん、これは本番を体験しないと気づけなかったことだなと思い直す。
だから再演は必要なクリエイションだなぁといつも感じるのです。
本番でしか気づけないことを、次へと繋げる。
俳優が肉体を持ってそこで生きてくれるから、ようやっと気づけることがある。
人生とおんなじだな。体験しないとわからない。
人生は一度きりだけど、演劇は幾度でも試せる。 演劇は人生と同じシステムであるにもかかわらず、忘れずに覚えたまま、課題に取り組めるのだ。
ゴリさんに振り返りで伝えたことは、「あとは勇気」
そんな振り返りってある? と自分にツッコミながら。
フク…大路絢かさん(原脈)
サドルを隠すイタズラを繰り返していたまぼろの親友のフクちゃん。
#0の父である山田さんが、初めて大路さんと対面した時の会話。
「ああ、(君が)サドルを隠していた……」
「フクです」
やけに面白かった。
物語の中のお話なのに、父とフクが話していると感じた。
まぼろと一緒にいてくれたフクは、ツルコが遣わした使者だと思っている。
うううう……!
今になって、思う……!
ツルコがノートを閉じた最後。
吏員との最後のシーンが始まるところ。
フクちゃんがアクティングエリアからはけるところ。
しっかりとツルコと目を合わせてみてもアリだったんじゃないか……!?
と、今、ふと思ったりした。
戯曲にはない部分で、稽古場を積み重ねていく中で、
フクという存在は、劇世界を広げてくれたように思う。
今回、原脈のお二人に揃って出演してもらいました。
それってイイのかイケないのか、ひぐは少し迷ってしまったけれど。
20代の頃、同じ劇団から何人も客演に呼ぶものじゃない、とか教えられた過去があるからだと思う。その理由も理解はしているけれど、今回の原脈さんには当てはまらないと思って。お声をかける前には一応お二人に了解を得て。
春に、舞台監督の都さんのイベントで「アイホールでピクニック」にお二人が出演していて。ピアノと絵と表現。 私はそれをみて、ああ、まぼろとフクみたいだなぁと、ふわっと感じたように記憶している。書いている最中だったのかな。細かくは覚えていないけれど。
大路さんの感覚は興味深い。感覚というか、厳密に言うならきっと「触覚」だなと感じた。彼女の身体から少し離れたところのものをキャッチする。それは少し伸びた触覚。表現の始まりが演劇ではなく、確か陶芸とかガラス素材だったとお聞きしている。面白いこの感覚は物作りから始まっているからかしら。大路さんが興味深くひぐのことを見てくれるのと同じように、私も「面白い生態系だなぁ」と見てしまうのです。なんとなく、「人間」がツルコのことを見ていくのがわかった気がした。
カメコ…池山ユラリさん(彗星マジック)
去年だったかしら。TA-netと芸術創造館の共同事業の舞台手話通訳の上演で、彗星マジックさんが出演されていて、その作品も素敵で、そこに出演されていたのでした。いいなぁ。とっても気になるなぁという俳優さんでした。
カメコのセリフで「1000人産んだ」という言葉は、ある意味本当だと思う。
少なくとも、ユラリさんは稽古と本番を含め30人以上は産んでいると思う。
このシーンの最初の稽古のとき、迷いなく、かどうかはわからないけれど、私には迷いなくと見えた。彼女がこのシーンに飛び込んだ瞬間に、私は衝撃を受けた。
そこには何もなかったから。
戯曲でシンがいうセリフ通りだった。
なにもないのに、彼女は産み落とした。
俳優とはすごい生き物だとあらためて思った。
ユラリさんは、ひとつひとつをつぶさにみる。
一歩、一歩を踏みしめて進む。
だから獲得するものは確実だと思う。
言葉がスパンと前に出ていく瞬間が、とても美しいと感じた。
カメコは太陽の船に乗れたんだろうか。
また路上へ帰っていくんだろうか。
女の人の身体の悲しみを、カメコは全部背負っているから常軌を逸しているんだろう。
さまざまにあるセクシュアリティとは違って、肉体はXXとXYに分けられる。
もちろんインターセクシャルの人もいるけれど、多くは、XXとXYという肉体の入れ物がある。そこに入るセクシュアリティはある意味自由である。
が、
授けられた肉体はとてつもない意思でないとそう簡単には変えられない。
XXであれば、XXが持つ肉体の性質には抗えないし、XYが持つ肉体の性質にもこれほど抗いがたいものはない。この世にある宗教の修行は、ほとんどがXYがそのXYの煩悩から逃れるためのものであるのは事実だ。そして達成したものは人間であるなら釈迦しかない。イエスはちょっとジャンルが違う。
XX は本来喜びの性質であると私は信じてやまないが、
エゴイズムが暴走する社会では、XXは悲しみの性質を帯びてくると感じる。
いかん、話がどんどん#2に移行しているのでここで区切ろう。
カメコは、XXが持つ悲しみ苦しみを明らかに見た女性である。
カメコが希望の家と呼ぶところはどんなところなんだろう。
稽古をしながら、希望の家の展開が浮かぶ。
最後の役者紹介は、#0と#1どちらにも登場した3人です✨



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