『げきじょうのひ』ふりかえりとともに、俳優紹介✨
ずいぶん前は、本番前に俳優紹介をしていて。
だけど本番前ってなにかとあわあわするから、そのうち本番が終わってからするようになりました。しない時もあったりしました。そのうち、そのうちと思って日々が過ぎていったのでしょうか・・・いろんなことに忙殺され過ぎていたのでしょう・・・
嗚呼……
というわけで、ひぐ忙殺される前に!
#0からご紹介です。
#0の俳優さんは去年の12月のリーディングの時と同じ俳優さんに出演してもらうこと叶いました。よ、よかった! リーディングが始まりだったので、ここから続けたかったもの!
そうだわ。
リーディングで発見したことは本当に大きなことでした。
台詞って、その人物の肉体になるのだと発見したのでした。
「演劇」ってとっても広いから、いろんな演劇があっていろんな表現があって、正解なんてなくて、だけど自分にとっての表現をどうしたいかの信念は明確に持たねばならない。
そう考えると、私にとって大事にしたいことの一つに「せりふを覚えて忘れる」ってのがある。忘れるためには覚えねばならない。完全に覚えるから忘れられる。なんで私は台詞を覚えて欲しいのだろうか、というその本質を見つけたリーディングでした。
台詞は登場人物の肉体となる。
私的には「はぁっ!!!なるほどー!!!」まるでアハ体験でしたが、まだこれを他者が納得できるようには言語化できていないので、熟考しよう。
さてさて、それでは俳優紹介です✨
父…山田一幸さん(朱亜 shu-A)
今回のお稽古が始まった9月末にはくじら企画さんの本番に出演されておりました。
本番終わってすぐにこちらのお稽古に参加してくれはりまして・・・なんて大変なことを・・・ありがとうございます。リーディングを体験した全員で上演をしてみたいと思っていたので、無理を言いました。土台があるところから始めたかったのであります。
土台って大事だなと思いました。
Plant Mの方法論は、ベテランの俳優さんにはきっとやりにくい現場なんではないだろうかなといつも思うのですが、私よりも年上のベテランの今現在も俳優を続けている俳優さんたちは、ベテランなので(なにこの当たり前の文章?) 私なんかが言うことでも必ず真摯に受け止めそれをどうにか試みてくれはるのです。
それは、今回の保さんももちろん。
そして蟷螂さんもそうだった。
山田さん演じる父は、かつての屑(田宮氏演じる)でした。
仕込みを終えたあとから、はっとして。
父の中に屑の姿を見るようになりました。
姿も形も声も違うのに、不思議な体験でした。
まぼろが巣立った後、父はひとりきりになる。
親ってそうなんだな。
父がここまで来るのに、どれだけ苦しんだんだろうか。
『げきじょうのひ』#0はツルコとまぼろの物語ではあるけれど、
父と屑の物語でもあるのです。
屑…田宮ヨシノリさん
「屑」とは、父が若かったころ。まだ青かったころ。自分以外に守りたいものなんて、なかったころ。自分を否定し続けていたころ。自分を受け入れられなかったころ。本当に自分はクソだなと本気で自分を罵倒していた青年時代。
この「屑」という人物を、さてどう理解すればいいだろうか。
「弱々しいってことでも、ないんですよね?」
稽古の時に田宮氏が言った。いつもながら鋭いわねアナタ。そうなのよね。
自分を否定するのも実はパワーがいる。それが表に向くと他者への攻撃となり、うちに向くと自己への攻撃になる。 この自己否定の攻撃性を、どうにか表現に転換している表現者たちは多数存在すると思う。きっと20代の頃の私自身もそうだったと思う。
少なくとも。
演劇をやっている人で、「屑」のような自己否定している人は少ないのではないかと思っている。つまりまだ表現に転換する前の状態だから。
ただ最弱であるなら振り切ってやりやすいだろう。
しかし問題は、いつしか「屑」は「父」にならねばならない。
「父」になれる要素が彼にも存在せねばならない。
「屑」だけど「屑」じゃなかったー!
みたいな。
その微妙なバランスを保ちながら。
一番最後のツルコとの別れのシーンで「なんやねんっ……!」というセリフがある。
いつも、そこが非常に情けないのだ。
情けないのがイイとは、なんとも複雑。
イケてるだけを知ってるよりも、イケていないことを知っている方が、人間は絶対に味わい深くなると思う。田宮氏もこれからもっともっと味わい深くなっていくと思う。
あ……保さんや山田さんが味わい深いのは、きっとそういうことだ!
橋本くんも今絶賛味わい深さを深めている真っ最中なのか!!
人間…奇異保さん
そそっと劇場にやってきて、そそっと帰っていく。
振り返りで伝えたことは次の稽古には解消してやってくる。
その時に保さん的ひねりを入れるのを忘れないのだ。
それを俳優の存在、オリジナリティというのだろう。
本当は……めちゃんこご披露したい保さん俳優エピソードがある。
彼がどれだけ演劇を大事にして、言葉を大事にしているかが分かるエピソード。
けれど、それは秘めておこうと思う。
ほぼ私しか知らないことだから、私が勝手に言っちゃいけないだろうしね。
演劇を愛してやまない俳優だと思う。
保さんが演じた「人間」はまた登場するような気がします。
ツルコを見送った後、動けない自分の代わりに若かりし日の自分「シン」に後を追わせました。その本体の「人間」はきっと今もベッドの上でじっと天井を見ているのです。話せるのでしょか。それは分からないけれど、「人間」が横たわっている。その風景だけが浮かびます。
ドラァグ…ののあざみさん(yum yum cheese!)
存在が大きいです。
黙って本を読むだけでも存在が大きいのです。
ののさんにぴったりでした。
シンとレジスタンスのシーンの後で、ドラァグが本を閉じ、物語の中のシンとレジスタンスに平安を与えてくれます。戯曲にはないシーンです。私たちは物語を読んでいるときに、登場人物に憐れみを感じることも、怒りを感じることもある。頑張ってとエールを送ることも、大丈夫だよと慰めを送ることもある。そんなシーンがきっと作れるんじゃないかと思った。
途中で動いても、きっと成立すると思った。
ドラァグはツルコにどんな恩があるのか。
ひぐの頭の右上前方あたりにその風景がある。
まだ掴み切れていないけれど。
#2とか#3にきっと登場すると思います。
レジスタンス…ナオカさん
ワンシーンのみ登場のレジスタンス。だけととっても重要。シンの罪。レジスタンスとのことがなかったら、シンは年老いて「人間」になってから回収屋の手伝いなんてしようと考えなかった。 そしたらツルコとも出会わなかった。そしたらツルコは背負い劇場引っ提げようなんて思わなかった。全ての始まりの人が、レジスタンスです。
一生懸命に生きた人。
これが自分の生きる道だと信じて突っ走った人。
若いエネルギーいっぱいの人。
そのエネルギーは「純粋」
これはナオカさんだなぁ……! と、私は感じるのです。
自分のエネルギーをタンクいっぱいに蓄えているのがナオカさん。
そのエネルギーの放出を「えっと、えっと、え……」と、恐る恐る小出しにする時は、きっと自分でも不完全燃焼を感じていたり、「あー、こっちから吹き出したくはなかったんだよぉー!」と、エネルギーの溢れ出し方に迷ったりして落ち込んだりする。
その過程こそが私は糧だと思う。
レジスタンスが揺れて迷う姿が見えたことが始まりなんだと思った。
シンに銃を突きつける
。
「だけど本当にこれでいいのかな・・・ 」という一瞬の迷い。それはレジスタンスにとっては、とても大切な一瞬の迷いだった。けれどその迷いにシンが銃を奪ってしまった。
かまえたら、撃ってしまう。
シンが、「人間」が本当にレジスタンスに許される日って来るのだろうか……と、
楽日の日にぼんやりと考えていた時、その風景が見えた。
続きがまた見えた。
稽古をやればやるほど、本番を体験すればするほど。
ペエジをめくるように、展開が進んでいくのです。
さてさて次は#1へと続きますー!!!





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