『げきじょうのひ』ふりかえりその④ #0 #1 共通俳優紹介 

今回は連作でございましてね。
まぁなんてこと。
ねぇ。 
ダブルキャストならばどちらかに出演なのに、
今回はどちらにも出演という俳優さんが3人もいらっしゃいました。
 
「連作なんですが、大丈夫でしょうか・・・」とお尋ねしましたが、
3人とも、当たり前ですが、やったことがないので未知という返答でした。 
それでも「やってみます」と答えてくださって、受けてくださって、本当に感謝です。
ありがとうございました。
これも3人、同じようなことを言うてはったのですが、
 
「ひと作品だと認識している」
 
とのこと。
なるほど。
そうか。長いひとつの作品だと。
うむ、それはそうなんだけれど。
人体としては苛酷でございます。 
ロングお稽古は、2作品のお稽古になるので、え、今、どっち?
と、ひぐも頭がバグりました。
そんな3名のご紹介です。 
 
まぼろ…毛利あかりさん(原脈)
 
連作は、新作2作品同時に上演ということで、ひぐ自身がまだ辿りつけないところがたくさんあって、自分で書いているからこそ無意識を見つけ出すには、再演、再再演を繰り返したいのが正直なところでございます。
 
何が今のベストかしらと考えあぐねる。
悩む。そんな時、俳優が必ず助けてくれる。 
 
まぼろが劇中どこから見ているのかを、私自身が見つけ出せない時、
あかりさんに「自由に探してみてほしい」とお願いをしました。
 
稽古の時、ふっとあかりさんが立った場所。
あ、と思った。
あ、そこだったんだ……! 
見つけてくれて本当にありがとう。
人物の居場所は俳優が一番わかってる。 
彼女のセンスには本当にいつもいつも驚かされるのです。
そして肝が据わっている。 
とても微妙な表現を試してみてと伝えると、何かを必ず見つけ出す。 
彼女には、あらゆることを表現し続ける枯れない泉があるのだと思う。
 
Plant Mのクリエイションは、苛酷。
深淵をのぞくことになるから、苛酷。 
自分をあきらかに見ることになるから、苛酷。
自分と向き合うことは自分の闇にのまれることにもなりかねないから、苛酷。
そういう意味でPlant Mは苛酷。
まぼろという役も苛酷。
苛酷でありながらもそこに存在してくれたことに、本当に感謝です。
まだ20代だというのだから脱帽する。 
彼女の糧になりますよう。
 
シン…橋本浩明さん
 
苛酷……?
あ、そうですね。
はい。
苛酷ですけど、はい。
ええ、はい。
え……苛酷かなぁ?
 
とか言いながら毎回苛酷に頭から突っ込んでいくのが橋本くんです。ありがたい。 
 
浮遊し続ける。
1センチ、床から浮いているような。
空気そのもののような。
肉体がないような。(あるのに!)
それどうやってやるんですか、ということばかりを橋本くんに伝えます。 
 
オーダーでは決してないのです。
私の理想をやってくださいということではない。 
そのイメージを持ったら、どうなるのか。
いつもいつも、実験です。
問うてみるだけです。
どうなるかな、どうかな、こうなったら、と。
考えればどこかに行き着く。
変化が起こる。
舞台の上で、本当に見事に生きている。 
 
シンのレジスタンスとのシーンの冒頭に、長い長いセリフがあります。
それはずいぶん前から私の頭によぎっていった言葉たちでした。
シンが語ったような未来になると言いたいわけではない。
それらの世界を作り出すのは、いつだって人間。
人間以外の生き物は作れないし作らない。 
それを忘れたくないだけ。
忘れたころに、災難はやってくるから。 
 
シンは本体の「人間」の体に戻ると、シンがツルコとともに体験したことが、ちゃんと「人間」に伝わっていくのだと思っている。身体が動けなくても、精神が飛び回れるのであればいいなと思う。 そうであったらいいなという願いかもしれない。

まだしばらくは、シンとツルコの旅は続きます。
 
ツルコ…大木実奈さん(noyR)
 
一緒にクリエイションをすることになって、もうずいぶんと経ちます。
私はアカデミー二期生で、大木さんは三期生でした。
修了した後はnoyRでたくさんの作品を作りました。
気づいたら、あれ、もう10年くらい経っていてびっくり。 
大木さんは緻密。
だからこそ、「こんなことをプラスしたらどうなる?」「こんな考え方を入れてみたらどうなる?」「これも可能か?」「あれも可能か?」と、いろんな試みをはじめられる。
 
私が何かを言うと、「……また難しいことを」と呆れる。
 
が、試みる。
その繰り返し。
きっといろんな現場でそうやって彼女は進化して10年経った。
なかなかにすげぇ俳優になっていった。
そしてこれからも進化を続けるのだろうと思う。

舞台上での彼女の存在は、なぜそこにいるのか明確だ。 
説明の演技など一切ないのに明確に感じられる。
普段の彼女は、だいたい何を言っているのかよくわからないのに。
おもろい人。
 
ツルコはどこに行くのだろう。
ツルコはどこに帰るのだろう。
ツルコはどうなっていくのだろう。
またきっと私は大木さんに難題を言うのだろう。 

俳優たちの紹介をしつつ、いろんなことをふりかえって、登場人物のこともふりかえって。
そうしないと明日に行けない感じがする。
続くけれど、一旦、#0 と#1 にありがとう。

ながぁい公演をすることを受け入れてくれた芸術創造館中Bにもありがとう。
ここでも公演できるって、たくさんの表現者に伝わるといいな。
いろんな工夫はもちろん必要だけど、工夫こそがそこが面白い。 
それぞれのオリジナリティがきっと現れる。

俳優たちの表現に心からの感謝を。
スタッフたちの表現に心からの感謝を。 
劇場にやってきてくれるお客さんたちに心からの感謝を。 
 
お客さんに対しても、とてもヘンテコな感覚だけれど、観てもらっているというよりも、
参加してもらっていると思っている。お客さんも劇世界を構成する要素だから。 
お客さんがいないと始まらない。
最後の要素。
この世界を作るために必須。 
客席が、同じ客席になる日など1日もない。
客席が持つ空気は、確実にこちらの劇世界を作る一つになるのだ。
だから上演されるものは毎回同じにはならない。
けれどブレたりはしない。
客席の空気を受け取って、俳優たちは生きていく。 
 
だから、あなた(観客)がそこにいてくれないとこの世界は完成しないのです。 
 
と、私は毎回客席の後ろからそう思って舞台を観る。
そこにいてくれて、劇世界を作ることを担ってくれて「ありがとうございます」と思う。
でもなんだかこの説明ってややこしいから、観にきてくださってありがとうございます、という通常の言葉を使う。
 
眺めるものではない。
自分もそこに存在して劇世界を作るもの。
あなたも関係している。
もう他人事には成りようがない。
そんな客席に座ってくれる皆さんに、本当にありがとうです。

演劇は人間を観に来るのもだと思う。
人間がそこに作り出したものを観る。
人間そのものが目の前で生きて動いていることを観る。
私にとっての演劇としては、でしかないけれど。 

演劇は幅が広くて良かったと、つくづく思う。 
もしかしたら私のやっていることは演劇とは言えないのかもしれない。
エンターテイメントというものから、確実にハズレているもの。
私がPlant Mでやることは、演劇でなくてこれは哲学なのだろうかしら。
 
それでもこれが私にとっての演劇ですとしか言いようがない。 

深淵をのぞいたところからはじまるクリエイションを、私はやり続けるのだと思う。 
私にとっての演劇とは、真理の探究。
 
人間とはなんであるか。
 
Plant Mの『げきじょうのひ』はこれからも続きますので、どうぞよろしくお願いします✨ 
 
打ち上げしました✨みんなめちゃ笑顔。
本番が無事に終わって本当によかった。
ほっとできて本当に、ありがとうありがとうありがとうございます。
またお会いしましょう。 

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