「アンタにあたしのお師匠の話をしてあげる」
空は、青く。
大人になりすぎてからのロマンスは悪くない。
っていうのは相手が誠実だったらの話にかぎる。
「うちの倅を選ぶたぁ、おまえさん、相当見る目がないね、育てたアタシが言うんだから間違いないよ。実家にお戻り」
と、お師匠は言った。
「すでに両親は他界。天涯孤独の身です。他に行くところもござんせん」
なんて江戸っ子じゃないけれどそんな気分で。
助け手が欲しかった。
だってこの腹の中、日々成長する。
頼れるのはアンタの唯一の肉親、お師匠のみ。
「ハネムーンベイビーでした」
そのまんまダンナになるはずの男はどっか行ったけど。
「おまえさん、今いくつだい?」
「手前50になりました」
「おまえさんたち頑張ったね。それで初産、なんかもう奇跡みたいなもんじゃないか」
「最近は人生100年時代ですから」
「倅のケツはふくさ。狭い家だけど雨風くらいは凌げる。だけど」
声をひそめた。
「ここにいたけりゃ秘密を守ってもらうよ」
この秘密が、あたしがギリ母をお師匠って呼ぶようになった理由。
「この手はふれるものみな花にしちまうんだ」
ふれるものみなキズつけるじゃなくて?
「若い頃は苦労したねぇ。家の手伝いしようにも鍋も皿も、この手がふれれば花になっちまうからやりたくても出来やしない。勉強しようにも教科書開いたら花開いちまう。いやぁ、やりたくても出来なかったねぇ」
「そ、それは、お仕事、た、大変だったでしょう……?」
「だから転々としたね」
「こ、子育て、どうでしたか……?」
「やっぱりねぇ、抱っこ出来なかったからあんなふうになっちまったかねぇ、ちょっとお前さん、お茶入れとくれ」
「あ、はい」
「つい最近もヘルパーにふれちまってね、あ、ちょっとお前さん、そこの洗濯たたんどいてくれ」
「あ、はい」
確かにお師匠は変わった人で、近所でもなかなか有名で。
「あら、新しいヘルパーさん? あの人大変だよ」
確かにお師匠は変わった人で、近所でもなかなか有名で。
「息子さんが頼りないから、おばあ、心細くて、白昼夢ってやつをよく見るのさ」
確かにお師匠は変わった人で、近所でもなかなか有名で。
「町内会の仕事も言い訳いってやらないのさ。じっとずっと家の中にこもりきり」
思わず、お師匠の手を握るあたし。
「おまえさん、信じてないね? 今は長生きしてもう心は賢者並みだからコントロールできんだよ」
ふれるものみな花になる問題よりも、あたしは気になることがあって。
お師匠はずっとじっとしてる。
あたしがこの家にやっかいになってから、ちっとも動かない。
「ばばあやじじいはだいたいじっとしてるもんさ」
そんなレベルじゃない。どこか体の具合が悪いんじゃないかと問い詰める。
と、
「おまえさんは感じないだけだ」
指差した。
ただの虚空を。
「見えすぎてよく分からない。ある。ここに」
どこに?
「わいを踏む大きな足たち」
あたしには見えはしない。
そんなことある?
誰に? 何に?
え、そんなことある?
「痛みも長けりゃマヒしてくる。笑えるほどに。だからって諦めたわけじゃない。その足をどけて。毎日言ってる、いつまでも踏んでいるそれをどけな。返事はないけど」
だけど何に踏まれているか見えず、手を伸ばして探ってもつかめず。
「ふれれさえすりゃぁ花にしちまえるのに、こいつはきっと、あんたっちゃぶるなんだ。いつか、いつかね、ふれられたらね、花にしてやるさ」
もう何を言ってるか分からない。けれどお師匠のアタマはいつも意識はしっかりしてる。1円単位の計算に余念がない。これを年のせい、なんて言えるわけもなく、あたしはどう受け止めりゃいいのか分からなくて間抜けな質問。
「えと、あの、トイレは?」
「夜中に行くのさ」
「どうして?」
「動くのに必死だからさ。青い空と太陽の下で必死になんてなりたかないから夜に行く」
と、カラッと笑った。
あたしの腹の中は、毎日膨れ上がる。この土地の熱気と、高齢出産の大変さと重なって、毎日がクラクラする。おばあは相変わらずよく分からないものにふまれ続けていると言いながら笑って、あたしたちはご飯を食べる。
あたしはこの生活が、嫌いじゃない。
ダンナって男への思いなんて、すっかりどうでも良くなっていたはずなのに。
だいたいそういう男はやらかしてくれる。
そうしてだいたい妊婦は繊細。
「ちょっと、ちょっと、ちょっとね、ちょっと」と、
わけの分からないちょっとを繰り返し実家に戻ってきたんだよ、アンタの父親。一応、新しい女は玄関の外で待たせるっていう計らいは出来たみたい。なんだそれ。あれ、いつ離婚届出したっけ、とか言っていたら、そもそも婚姻届を出し忘れているからあっはっは、笑ったか、お前、笑ってんのか、なんだそれ、じゃあどうなるあたし、手前50でございって、なんだそれ、医療の進歩とかいうけれどかなりの出産リスクだぞおい、普通医者止めないか? いや、あたしが強く望んだんだっけ? 今振り返ればなんでなのか自分でも分からない、けれど今よくよく振り返ればやっぱりアンタは必要でだってアンタこそが未来だから過去の男なんてベつになんとも思っていなかったのに勝手に涙があふれるこれがホルモンのなせる技だ止まらないどうでもいいのに止まらないあたしはこの生活が嫌いじゃないからそもそもお師匠はおまえに渡す金はないときっぱり言ってだからさっさとどこかへ行ってしまえと腹の底から叫んだあたしはこれもうきっと修羅場。
高齢だし。
ホルモンのせいだし。
ご飯作ってたし。
ラフテー切りたくて。
すぐそばに。
そこにナニがあるかで未来が変わる。
たまたまそこに。
あったから。
しょうがない。
だってないと料理できないし。
しょうがない。
とか、言ってたら、ほらもう、手が伸びてつかんで、
その刹那、あたしが複雑。
ダンナって男に切先向けてるってことは、
腹の中膨らむアンタにも向けてるってことで、
それはお師匠にも向けてることになって、
なにこの混乱。誰が悪いのお前しか悪くないけどあたしが悪いから悪いお前を引き当ててこんな倅に育てたお師匠のせいなの見極め甘かったやっぱりあたしのせいなのかってこのぐるぐる巡るよくない考えはホルモンのせい。
おさまれホルモン。
引き止めろホルモン。
あたし、ほんとにそんなことしたいのかな。
だけどつかんだ指と腕と体はもう走り出して止まらズ。
右手、大きく振りかぶって、突き出す。
切先は少し弛んだお腹にぐずりと深くメリ込んでいくはずが、
ふわりと軽く花になって舞った。
お師匠の手が、切先に触れた瞬間だった。
「おまえ、その足をどけろ、いつまでこの子、ふんでるんだ」
お師匠は自分の倅に言い放った。
花は舞い続けた。
あたしが握った包丁は、どこにも見当たらなかった。
花になったから。
その日から、あたしはお師匠を「お師匠」と呼んだ。
「弟子にしてください!」
「何を言ってんだ、朝飯にするよ」
まともに取り合ってもらえない。
「じゃあ勝手に弟子になります!」
だってもう嫁じゃないから家にいるってのもおかしな話で、それなら住み込みの弟子だ。
「おまえさん変わってるねぇ」
と、お師匠は笑う。
あたしの腹はデカくなる。
お師匠はじっとそこにいる。
あたしは少しずつ、お師匠の言葉や仕草や何もかも、真似っこし始める。
「何、キモいことやってんだ?」
「弟子は師匠の真似事から始めるもんかと」
鋭い切先、花に変える秘伝はどこにある?
「まずお師匠の言葉を覚えます」
「ちょっとかじったくらいで覚えられるもんでもなし」
「人生100年時代、残りの50年かければ」
好きにしろと、お師匠は笑った。
あたしの腹はどんどんデカくなる。
二人分だからと言い訳しながらご飯を頬張るのと同じように、
あたしはお師匠の言葉を頬張って、言葉を、食べる。
だからお腹は倍に、倍に、倍に膨れ上がる。
面白いほどに。
風船にブゥブゥ空気を入れていくみたいに。
お師匠の言葉が、あたしの体を大きくしていく。
たしかに。
ちょっとやそっとじゃお師匠の言葉全部を飲み込むのは難しい。
だって全部って言ったらつまりそれ人生全部ってこととイコールだから。
それでも食べる食べる食べる。
やがてはち切れそうになった体から。
ぽっこりあたしとは全く別のニンゲンひとり、現れる。
それがアンタ。
きっとお師匠とご飯食べたこととか、忘れてしまうから。
大人になるまで毎日毎日、あたしが話してあげる。
お師匠は本当に眠ったし、ある意味ではまた新しく生まれた。
じっとふまれたまんま。
ちょっと早すぎじゃないかって文句言いながら、
人生100年時代じゃなかったのかって言いながら、
あたしはその体を丁寧になでた。
頭の先から、足の小指の爪まで。
ありがとうって言いながらなでた。
一番最後、左の小指の爪をなで終わった瞬間。
あたしの口から溢れ出てきた。
言葉。
あたしじゃない。
お師匠の言葉。
まだ習ってない言葉だって、勝手に流れ溢れ出した。
あたしの体に、お師匠の言葉が入り込んだ。
あ。
あ。
あ。
見えた。
お師匠が、
見ていた風景。
あ。
じっとお師匠が座っていたそこに。
あ。
見えた。
あ。
あまりにも。
たくさんで。
あ。
あまりにも。
大きくて。
あ。
無数の足。
誰が誰のか、見えすぎるから逆に分からなくなる。
あ。
そこ。
あたしの足も、
あ、
あ、
あ、
ある。
見えた。
見えた、
みえた
みえ……
み
み
み
っっっっっはぁ……!
大きく息を吸って目を開ける。
いつもの。
暑くて。
今日も、空は青く。
目の前に見える、
いつもの、
フェンス。
なかなかイイ年で出来たアンタがハタチになったら今とは全く違う世界になってる。
きっと。
あたしが世界をひっくり返すから。
ふれられたら、花にしてやる。
お師匠が言った。
あたしは、米軍キャンプ・シュワブのフェンスに手を伸ばす。
おしまい
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