One Room企画 8月作品『ただのいちにち』ふりかえりと私の備忘録 ※9月2日追筆

One Roon企画 無事に終了しました。 
皆様、観てくださって本当に本当に、とってもとってもありがとうございました。
 
初めての経験がいっぱいでした。 
演劇とは、やはり違う。
けれど、繋がっているところもあるし、ああ、やっぱりここは同じなのか、とか、
気づくこと、発見すること、納得すること、本当にギュビギュビしたっっっ!!
 
毎回、毎回、不思議発見のお稽古でした。
私が「映像」ってものをよく分かっていないからだろうけれど。
じゃあ、「演劇」を分かってるのかと言われれば、そんなわけあるはずもなく。
天竺まで歩いている気分です。
そんで死ぬ時にお釈迦様に、「ほら、これがお前達が歩いてきた道のりです」って、
見せられて、「ええー! これっぽっちしか進んでないのー!?」と驚くアレです。
三蔵法師は夏目雅子の時代です。
 
話が西遊記になったぜ。あは。 
 
これは私の備忘録みたいなものなので、私にしか分からないような、何言ってるのかヨクワカラナイところもある、と先に記載しておこう。
 
これはあくまで私の作品、『ただのいちにち』 または私が思う演劇に関してのみなので、全ての演劇や全ての映像作品に当てはまるというワケでは決してなく、あまた活動する作家や演出家の数だけ、それぞれの思想があるのだと思う。ましてや、私は全く映像畑ではないので、映像に関することについては全く知らない。自分の体感と、「演劇」から出発して考えていることでしかない。何か映像に関して大きな誤りがあったらご指摘くださいな。

例えば。
映画やドラマで俳優が一人台詞を喋るなら、撮影の時にはこっちの角度で撮って、またこっちの角度で撮って、同じシーンを別の角度から何度も何度も撮って、いろんな視点を増やしていく。長いセリフを固定のカメラで撮って編集をしないやり方も、もちろんあるのだろうと思うけど、それは監督やカメラマンの物凄い意図がないとやらないことなんじゃないかと思う。それは画面が飽和するからだろうなと思う。飽和とは、画角が変わらないってことだと思う。つまり意味が変わらない。映像において、一つの視点というのは一つの意味を持つと思う。だからいろんな角度から撮影し、カットして繋いで、たくさんの意味を画角に持たせるんじゃないかって思った。

そもそもお芝居は古くはプロセミアムアーチ、一つの画角だ。もちろん、照明や音響、演出や俳優の視線などで、「今はここを観るのだ」という誘導はある。が、誘導通りにならないのが客席である。いくら誘導しても、案外お客は自分が観たいものにフォーカスを自分でかける。にもかかわらず、お芝居の場合は、ものすごく長い独白があったりするし、それはもう俳優の見せ所みたいな感じでさえある。それが成立させられる。

そうなのだ。演劇は俳優を見ていればいいのだ。
しかし漫画や映画はそうではないんじゃないかと稽古をしながら思う。
 
例えば、銀河鉄道の夜をイメージしてみる。ジョバンニとカムパネルラが車内の椅子に座って向かい合って喋る。舞台では、しばらく二人がただ喋っているだけでも、案外ずっと観ていられる。観るところがたくさんあるのだ。だけど、漫画や映像でただじっと座っているだけのカットが長々と続くことは、あんまりない。座って喋るコマ割りばっかりだと時間が進まないから、話す人を写し、聞く人を写し、あるいは外の景色を変化させる。映画もずっと外の景色は流れているだろう。
 
動く何かが具体的に画面の中に存在しなければならない。そしてそれはとてもささやかな動きでも、大きな意味を持つのだ。
 
演劇は俳優を観るものだと思うし、そうありたいと思う。根拠はその登場人物(俳優)にあってほしい。演出がそうしたかったのね、という演出の手触りを見るよりも、俳優を見たい。これは好みというか、それぞれの演出家の演劇に対する哲学、思想であるから、手触りを見る演劇ももちろんあるし、それはもちろん面白い。

だからこの考えは単なる私の理想。演出の存在が、全面には出ないことを選ぶ。
しかし映像となるとちょっと違うなと感じた。

映像は、俳優を観るのではなく俳優を含めた画角を見る、つまりは監督、カメラマンの意図を観るのなんじゃないか、と思った。その意図に俳優も入る、だから俳優は風景の一部となることも可能なのではないか。つまり、カメラというシステム? 媒体? を挟むのであれば、そこに何を映すのかという意図を強烈に入れねばならぬのだ。というか入らざるを得ない。テレビドラマであったらスポンサーの意図、事務所の意図、あらゆる関係性の意図がカメラに入り込んでくるだろう。いろんな人の意図がカメラを通して見えてくる。
 
だけど困ったことに今回は、ドラマでも映画でもなく「配信」なのだ。カットできたり、シーンを繋いだりすることはない。スマホ一つと、一人芝居だから、演技、テクニカルを含めて、たったの一人きり。なるほど。配信公演は、自撮り公演なのかと気づく。自撮り芝居。それがスマホの良さ、気軽さでもあり、面白みであると思う。

俳優が自ら撮る。スマホのカメラにカメラマンはいないので意図はない。配置としてそこに置かれる。だから私の意図を痕跡がしっかり残るように入れねばならぬのだ、と決めてみた。演劇においての演出プランはみちっとある。その空間、場所を作ることはもちろんする。そこで俳優は何を感じ、どう生きるのだろうと見つめるのが演劇においてのある意味の「意図」だけど、その手触りをできれば消したい。難しいんだけど。だけど今回は「意図的するぎる意図」のアトをしっかり残していくことが、カメラを挟んだ配信では必要なのかしらと思う。
 
赤い画面も意図的すぎる。シルバニアを置く角度も、「僕」の視点であるという説明の意図をだ。最後のカメラを持って走るのも、これでもかと意図を入れる。その代わりに、意図を説明するのがカメラになるから、俳優はできるだけ説明しないという演技を選ぶ。
 
この、説明しない、という言葉も曲者だなと思う。
 
演劇の演技についても「説明をしない」とよく言う。この言葉の中身は、演劇と映像では違う。とっても簡単に言うと、演劇においては「ジェスチャアをしない、身振り手振りで説明しない、セリフを説明しない、悲しいを悲しいとしない。悲しいと言うその人物の内面が知りたい」と言う。今回においては「アウトプットを大袈裟にしない」ただどちらも、心の回転数は回し続けなければならない。
 
今回は、アウトプットを大袈裟にしない、けれど動きを作る。
視線の移動が語る。
座ることが語る。
ふと顎を上げることが語る。
カメラを挟むと、わかりやすい仕草、動きが、物語ってくれるのだと気づく。
というか、それを分かっていないと伝えられないものが増えていくような気がする。
 
演劇で、「困ったなぁ」と言いながら頭を掻いたら、「困ってる説明で頭は掻かなくてもこのセリフは成立するのではないか」と言うと思う。 だけど映像だと、頭を掻いても説明にはならず、仕草になると思った。
 
演劇では、何もせず、ただ突っ立っているだけでも、心の中が目まぐるしく動いていたら、私は、見るべきものがあると考える。マニアックな考えであることは承知の上で。その時、私は何を観ているのだろうと思う。俳優の身体を通して、その心を見ているのだと思う。人間の目には見えるはずもないものを、捉えていると感じる。身体から発せられる震えを、見ていると思う。それが面白いなと感じるのだ。

それは、画面には、映らなかった。
ラストシーンは、公園だった。
目の前で見ているのと、私のスマホで映し出されるのと、確かに違う。
 
ただ、空を見上げた時に、生身の方ではずっと見ていられた。
だけど後で映像録画を確認したら「長いな」と感じた。
私はあの時、ただ空を見上げている石畑くんを見ていたわけではなく、心ごと見ていたような気がする。だけどそれは画面には映し出されない、だからカメラと角度を変えて、空を見ている姿を撮って、繋げるのか、と思った。
 
しかし今回は編集はないの。
決まったカメラの位置で、さてどう画角を変えるか。
 
本番を重ねるごとに、それは日記のシーンで発揮された。
俳優が、少しずつ、何かを変えるのだ。
カメラは変わらず。
だけど手の位置、少し前屈みになるだけで見え方は変わる。
見え方が変わると、意味が変わる、意味が増える。
※9月2日追筆
そうか、この方法は、演劇の方法の時にやる「分析と解釈」の段落わけなんだな。
段落ごとに体勢を変えることを、映像バージョンでやっていたのだ。

それはひっくり返せば、演劇はカメラに映りきらない、ということだと思った。
(じゃあ、映像販売のDVDなどはどう捉えるかと考えると、販売用のために撮影するとカメラマンの意図は入るし、最も作用するのは編集の意図。その時点で演劇公演は編集公演へと変貌を遂げるのだと思う。)

意図が入らないカメラの前で、いつものPlant Mの方法論で演劇をすると、最も見たいはずの心の震えが、なぜか見えないような気がした。人間の目が高性能すぎるのかしらと思った。
 
カメラは、カメラが理解できるものを捉えるのだ。
カメラに収まるものを捉える。 
俳優の細胞の振動数は、カメラに収まらなかった。
私は演劇側からいつも考えてしまうから、収まらなかったという言葉を使うけれど、
だからこそ映像には、映像のお作法があるのだなと思った。
 
超テクニシャンのカメラマンだと、見えない空気さえも撮ることができるのだろうか。 
だったらすごいな。でもカメラのいいところはそこになくったっていいんだろうとも思う。
 
そしてもう本番前だわという 23日の夜あたりに気づく。
 
今回の戯曲は、通常の演劇並み(以上)にセリフが多すぎる。生身の演劇は、目の前で俳優の肉体をもって演じられるので、観ている観客はセリフの量が多くとも、情報処理が間に合うような気がする。映像は、セリフが多すぎると、思っている以上に観ている方の情報処理が追いつかないかもしれない。

つまりどういうことか。

大量の言葉や、大量の動き、大量の照明、大量の音響、俳優が発する言葉にならない空気、震えを、観客は頭や心で受け止めていると思いがちだが、実は身体で受けているのだ。頭で理解をするのではなくて、身体の方が賢いのだ。もし「分からない」のであれば、それは頭が理解していないのではなく、感じられていないから「分からない」のだと思った。そして往々にして社会というものはできる限り感じないように作られている。感じていたらまともになんか働けない。だから芸術ってものがあるのだと思ってやまないけど。
 
この話を稽古中にした時に、石畑くんが、「演劇は体験なんだ」と言った。
 
体験は、肉体がする。

演劇とは、劇場とは、演者と観劇者が互いの生身の身体を使って情報交換をしていることを指すのだと、はからずもこの配信演劇で知ることになる。生身の体がどれほど高性能であるかを実感する。観客は受け取る側の受け身では決してないのだ。自らも発信している。見る、という行為がどれほど能動的か。見ているあなたも表現しているのだ。たとえ寝ていようとも、その体は寝ている何かを発している。観客はあらゆる視点を選び、観て、考えているのだ。その観客の震えは確かに舞台上の俳優たちから溢れ出たものに感化されているけれど、観客もまた観るという震えを舞台上の俳優たちに発信している。物語を観ているだけじゃない。これは肉体でしかできない相互情報交換なのだと、至極当たり前のことを、私は心の底から理解した。
 
稽古中、もっとたくさんの画角の中の発見をしたけれど、最も大きな発見はこれだった。
 
配信なのに、演劇を理解した。
ああ、なんて稽古っておもろいのだ。
本番っておもろいのだ。
ひとつ、発見すると、また新たな発見が見つかる。 
発見しているのは頭じゃない。
身体が感じているのだ。
 
今年1年、この企画に関わるいろんな人たちの「配信」「演劇」「映画」という捉え方が、きっとググって深くなっていくんだろうなぁ。とっても楽しいことだ。それぞれの考えの輪郭がきっと際立つ。
 
面白い企画を立ち上げたねぇ、石畑くん。年末まで倒れないように、ご自愛くださいな。
 
とても良い機会をありがとうございました。 感謝です。
 
自宅から御自宅へ至極のエンターテイメントを

匿名劇壇、石畑達哉による『One Room』
12人の作家と創る、12個のものがたり。
 
料金 2400円

配信 ツイキャスプレミアにて、生Live配信

チケット予約
 
この素敵ビジュアルデザインは、
二朗松田さんです。


コメント