Plant M No.22『WWW』振り返りといろんなあれこれ✨俳優紹介

ウイングフィールド再演大博覧會 Plant  M No.22『WWW』
無事に終わりました✨ 
みなさん、ホントに、ホントに、とってもありがとうございました。
観にきてくれはったお客さんも、
一緒にクリエイションしてくれた俳優さんもスタッフさんも、
本当にありがとうございました。

再演博覧會に参加したから、この作品を再演できました。
だからウイングさん、とってもとっても、ありがとうございます✨
 
13年前は遠いのか、近いのか。
災は遠いのか、近いのか。
生は遠いのか、近いのか。
死は遠いのか、近いのか。
未来は遠いのか、近いのか。
人間とは遠いのか、近いのか。

演出プランを立てるために戯曲を読んでいるのは、
今の私であるが、書いたのは13年前の私だ。
どちらも私。
どちらの感覚も、無視しない。
 
きっと人々はこの土地を去るだろう。
故郷を去るだろう。
未来のために生き延びれる場所を探しに行くだろう。
去り続けると、反転がいつしか起こる。
戻ってくる人々。
 
と、13年前の私は考えた。

この戯曲において、故郷とはなんだろう。
土地とはなんだろう。
日本人と規定するのはなんであろうか。
どの角度から?
どの視点から?
どの感覚から?
 
と、今の私は考えた。

戯曲への問いを立てる。
 
言語というもの。
日々使っているものが、自分を作る。
 
なるほど。
空間はわかった。
風景は広がった。
よしこれだ。
 
これから先は、どうあがいたってわたしにはわからない。
肉体を持つ俳優たちに教えてもらうしかない。
 
だからお稽古をするのだろう。

身体に言葉を入れる。
言葉に肉を与えてくれる。
それが俳優なのだなぁと本当に思う。

ああ、そうだ。
ああ、それだ。
そういうことか。
稽古をするたびに、納得していくことが増えていく。
そもそも初めからそう書いてあったよと思うくらいに。
でもそうじゃない。
戯曲から受け取れるものはとっても足りなくて、
書かれていないことの方が重要で、多くて。
 
ああ、お稽古って、本当に面白い。 
いろんな人が関わって、創造していく。
 
わたしは何してただろう。
ナンもしてないな。
見てるだけなのだ。 
厳密に言えば、そりゃなんかしてるんですけど。
でもやっぱり、ナンもしてないなぁと思う。 

Plant Mの方法論はあるにしても、それが目的ではない。
この舞台劇的空間を、ただ生きるための方法論でしかない。
目的は、そこで生きること。
それだけ。

今回はお話会という名のオーディションをいたしまして、
初めましての皆さんでした。
 
何をやらされるやら、ナンだこれ、と戸惑ったことでございましょう。
試みてくれて本当にありがとうございました。 
俳優さんたちの糧になったらいいなと思う。
 
出会いは面白いものです。
これからも臆せずに若い人とも、年上の人とも出会っていけたらもっと面白い。

終わってからだけど✨俳優紹介✨
 
涅槃 白木原一仁さん
しろっきーさん。知っているけど初めましてのクリエイションでした。
涅槃がしろっきーさんでなければ、あのプランにはならなかったでしょう。
ほぼ70分、立っている。
そして動いたかと思うと、涅槃になる。
立つ。
ただ立つ。
それがどれほどの集中力を要するか。
しかも立ちながら遠く遠くに意識を飛ばす。
最終的には涅槃の意識は太陽までたどり着いて、「日の出の時刻です」になった。
稽古で、はじめて涅槃が歩いた時、ああ、そうかと私は納得した。
誰もみんな、語るべきことを語り終えたら、安堵するのだ。

男/若い男 田宮ヨシノリさん
前説が終わり、暗転が明けた瞬間にはもう大量の汗を流しておりました田宮氏。
理解力、把握力が高く。
腑に落ちるとすぐに自分のものとして受け入れられる柔軟性。 
それってなかなかできるモンではない。 

だったら次はこれをやってみたらどうなるか。
これを挑戦してみたらどうなるか。
果敢。素直。
素直であるからこそ、集中の途切れ目、意識が向いていない時がよく分かる。
が、そんなことも、きっともう克服済みのような気がする。 
 
「あ、鼻歌、歌えるって思った」
 
涅槃の鼻歌を聞いて、それを受け取って歌う。
俳優が自らシーンを構築していく瞬間を見た。
 
娘 毛利あかりさん
瞬間を捉えること。
感じること。
この「劇世界」を、そうかと受け入れる俳優の器の広さという尺度があるのであれば、
彼女は 未知数と言えるほど、広い。
広すぎて自分で気づかないほどに広いと感じる。
 
娘が死を迎える時に、ふっと原先生の振りをダウンロードするセンス。
 
そこにいることに抵抗しない。
と、同時に、自らが信じている思想も確実にある。
だから 、ただなにかを見ている瞬間、
劇世界でその存在が強く在ることができるのだと思う。
 
ああ、さっきの自分は荒いな、と自分で気づける繊細さが、
言葉と肉体を扱う術はもう自分の手の中にあることにも、きっと気づいていると思う。
 
娘 ナオカ
集中とリラックスのハザマに立った時に、爆発的な力を発揮する。
自分で思っていたような自分ではない何かが走り出す瞬間。

劇場という空間と、
客席という空間が、
 
ホントに、ホントに、最終的に彼女を完成させるのだなと感じた。
 
もちろん、これは、演劇というもの全てにおいて、
俳優というもの全てにおいて、当てはまることなのだけれど。
 
mustをやめてみる。
縛りを解いてみる。
恐れは外にはなく、自分の中で膨れあがる。
そこを見るだけで、恐れは小さくなる。
集中とリラックスのハザマでは、いつだって無敵ナオカ。 
その自分を、知ったんじゃないかなって、思えた。

母 ののあざみ
母と娘は、戯曲にはない要素を稽古の時に足していったこともあって、
試しながら、試しながら、日々の稽古を積んでいく。
それに加えて、なかなか理解しずらいひぐの感覚のことを言われるののさん。
 
「肉体をなくして修羅から始まって解脱へ」 

ハァン?(リアーナ風に)

とは言わずに、ひたすら試すののさん。
付き合いの長さもあって、理解は簡単なのだけれど。
さて、ではその肉体をどうするかは、いつもひぐはわかりません。
ただたくさんの情報、状況を渡すしかできず。
その場で、俳優が体を使って体験していく。
体を使うって、感情、感覚を使うってことだと思っている。 
 
ある日、
 
「ずっと揺れ続けなあかん」 

と、ののさんは言った。
 
人の心はそう簡単ではなく、
決めきれず、
諦めきれず、
悲しみきれず、
怒りきれず。
 
ののさん、あ、行き着いたな、見事だな。
 
しかし打ち上げで、もっとこうしたらよかったわぁと悔やむののさん。
演劇すっきゃなぁーと思った。

✨舞台写真は橋本ちなみさんです✨

『WWW』に関わってくれたみなさんも、また新たな舞台が始まるのでしょう。
 
舞台は終わってまた始まる。そして始まってまた終わる。その繰り返し。
特別のようで、当たり前だ。 

人生も。

終わって、振り返って、また生まれて、もっとこうしたらよかったなぁって宿題があって、宿題やりのけたら、また新しい課題が生まれて、終わって繰り返し。

たかだか自分ひとりぽっちの人生じゃあ、
知りえないこと、
考えられないこと、
感じられないことが、
舞台の上で繰り広げられている。
 
だから客席ってものがある。
だから演劇ってものを見るし、演劇ってものをやる。
舞台上の誰かの人生を見て、舞台上の誰かの人生を生きて、舞台上の誰かの人生を創って、きっと自分の人生では解ききれない宿題をやってるんだと思う。
 
Plant M No.22『WWW』無事に終了しました。
ありがとうございました。

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