『ソーマトロープ』わたしの振り返り

岐阜ろう劇団いぶき『ソーマトロープ』の公演は無事に終わりました✨
観に来てくださった皆様、
お手伝いくださった皆様、
いぶきの皆様、
たくさんたくさんの皆様に本当に感謝です。
ありがとうございました。
 
 
いぶきの河合さんと初めてお会いしたのは、PLAT制作の舞台、
舞台手話付き公演『凛然グッドバイ』でございました。 
私は演出で、河合さんは手話の監修でした。
手話とは言語なのだ。
それは当たり前のことじゃないか。
だけれど。
どんなことでも、当たり前のことが「ああ、そうだ、そうだった」と腑に落ちる瞬間、
私は自分が人間であることを思い出す。
 
言葉であればそこには文化がある。
日本語の文化と、手話の文化。
舞台手話通訳付き公演では、日本語文化圏での公演だったのだと振り返って思う。
『ソーマトロープ』は手話文化圏の公演に私が参加した。

稽古に合流する前に、手話を覚えた方が絶対いいだろうと思ったわけで…… 
you tubeやらネットやらで見よう見まねをしてみるけれど、
稽古場に行ってとっさに出る手話といったら、
「よろしくお願いします」と「ありがとう」くらいでワレながら愕然とス。
しかし一緒にご飯を食べたりともに生活をしていると、 
少しずつ覚えるし、少しずつ理解ができる。
わかる。
伝わる。
ともにいる。うむ。なるほど。これが一番だ。
 
では稽古ではどうだろうか。
稽古場には、通訳さんがいらっしゃる。
だからそれでいい、ということではなく。
 
PLATでのシンポジウムの時のチュプキの支配人の平塚さんの言葉。
 
「人を介してでも伝わる」

人を介してこそ伝わることが重要なのだとその時感じたことを思い出す。
どれだけ共有できるか。
伝えた、で終わることなく、
それがどう伝わって、どう感じて、どう腑に落ちたか。
言った(伝えた)ことは全て通じている、
ではなく、
どう伝わったかを共有する。 
通訳者に全信頼を置こうと思った。
 
お芝居の創作としては、
具体的に見ること。
具体的に動くこと。
この2点に重心を置く。
 
それ以外は、いつも自分が言うことに変わりがないことに気づく。 
変わりがないんだ……!
これも当たり前のことで。

言葉になる前には、心がある。
 
その手話が出てくる時の登場人物の心を見ているということは、
その日本語が出てくる時の登場人物の心を見ているのと、同じなのだもの。

言葉の意味を知りたいのではない。
その人の心が知りたい。
心は全ての人に在る。

何を思ってその言葉を表現したのだろう。
見えないものを見ることは、いつもと同じだった。

LINEのメッセージのやりとりやビデオ通話など、 
テクノロジーが進化すると、伝わる手段は格段に広がる。
それらが当たり前に存在する20代の手話と、
60代の手話とは、きっと大きく違うのだろう。
それは日本語文化圏でも同じことだけれど。
 
テクノロジーの進化は手話とどう関わってくるのだろう。 
30年後はどうなっているだろう。
それも、また、日本語文化圏でも同じことかとふと思う。
 
当たり前のことについて。
頭がバグるくらい、 「ああ、そうか」と何度言ったかしら。 
 
言語を獲得するためには、心が動く必要がある。
心が動いた瞬間に、言葉を入れる。
 
出演者の方で、難聴の子どもたちに言葉を教えるというお仕事をされている方が、
 
「演劇も同じなんだなと思いました」
 
と、教えてくれて。
また私は、「ああ、そうか」と感嘆ス。
俳優はセリフを表現する瞬間に、心が動く
だからその言葉が、手話が、生きる。 
それを観るから、観客も心に残る。

心が動いた分だけ、言葉を獲得する。表現を獲得する。

いぶきの皆さん。
いぶきに関わる全ての皆さん。
本当にありがとうございました。
ぜひともまたお会いしましょう✨

 鬼先祖。とびきりカワイイ✨

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