蟷螂さんのこと

まとめもせずにただ書きつける。
少しは言葉にする。
 
島根の公演を終えて帰ってきて、そのことを聞いた。
 
死の知らせはいつでも突然に決まっている。
夕方前にその言葉を聞いて、
頭で理解して、
そこから心に伝わるのは、
夜になってからだった。
 
それからしばらく。
 
日々のこと。
せねばならないことがたくさんあって。
ご飯を食べるとか。
歯を磨くとか。
仕事の連絡とか。
人と話すとか。
それらをするためには自分の感じる段階を鈍くするしかない。
だけどずっと鈍くし続けているのはいけない。
本当に感じなくなってしまうから。
それでも感じる段階を緩めると、何もできずに日々が止まる。
中途半端に心を鈍くし、
中途半端に日々が過ぎ去る。
 
という人たちは、きっとたくさん。
 
なぜ私は泣いているのだろうと考えた。
死の知らせを聞くと、いつも思う。
悲しいという説明できる感情で泣いているのではないと、いつも、思う。
 
感情を超えて涙が流れる時に、
それは必ず真理や真実になにか触っているからだと思っている。 

私はなにに触ったんだろう。
歩きながら考える。
泣いたまま考える。
 
なぜ私は泣いているんだろうか。
ここにもういないことに泣いているようには、自分で思えなかった。
なぜ私は泣いているんだろうか。
確かに生きていたことに、私は泣いているのだと思った。
それが真理で真実だからだと思った。
 
もういないことは事実だけれど、
真理で、真実は、確かに生きていたことの方なんだと思った。
 
見えている現実というやつは、
見えないものを本当に見るために在る。
 
自分ではない他者が書いた言葉を、俳優は語る。
その言葉を、自分に潜って、さらに潜って
もう自分の領域ではないところまで潜って、
自分にはなかったはずの作家の神経を見つけて自分の領域まで再び戻ってくる。 
そんな狂気の淵に当然のように立っていた。
蟷螂襲は、俳優を超えて、
蟷螂襲という存在そのものだった。

2011年から2021年の10年間、
彩雲リーディングの締めくくりは蟷螂さんの詩の朗読だった。
 
私は蟷螂さんが生きていたことに感謝する。

「 表現という 戦い 」 詩 出口弥生/読み 蟷螂襲

 

我々は戦っている

 

戦車だ

戦闘機だ

我々の体はそれらそのものだ

 

深海のような

夜の入り口

おぼれてしまう

青の中

垂れるつり糸

耳に聞こえぬ

サイレンが鳴る

 

だから

友よ、戦ってくれ

 

挫折に

敗北に

混沌に

人生に

それら全ての現実と

戦い続けなければならない

 

我々の体が戦車なのなら

我々の体が戦闘機なのなら

我々がそれらそのものなのなら

 

サイレンは鳴るだろう

 

だから

友よ、戦ってくれ

 

未来に我々は挑んでいるのだ

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