『路地裏BABY』『路地裏LADY』ふりかえり

『路地裏BABY』『路地裏LADY』が無事に終わりました✨
本当に無事に終わってよかったです。
今回だからというわけではなく、最近ね、本当に心からそう思うのです。
誰も怪我せずに、みんな、ちゃんとそろって楽日まで一緒にお芝居ができて良かった。
たくさん観に来てくださってありがとうございます。

「路地裏の舞台にようこそ」という西成での演劇祭を主催して、
誘ってくれた森本くん、寺川さん、ありがとう。
そしてお疲れ様!!
とっても大変だっただろうなぁと思います。
だってものすごい数の参加団体ですもの、ねぇ。 
参加団体の皆様も、お疲れ様です。
明日はゆっくりみなさまおやすみできますように。
 
三日目のお昼ご飯の時だったか、假奈代さんにこう聞かれて。
 
「どうやって配役を決めたの?」
 
わたしはその時、「配役というか、当て書きをして」と答えた。
けれどその日の帰り道に歩きながら考えた。
 
違う。
わたしは、もらい書きをしたのだ、と思った。
何年か前からひと花センターで演劇ワークショップを担当させてもらっていて、
年に4、5回、みんなと演劇で遊んで、その間に、
わたしはおいちゃんたちからいろんなものをもらっていた。
わたしが当てたんじゃないのだ。
おいちゃんたちがわたしにくれたもので、
みんなからもらったものを文字にしただけだった。
もらい書き。
こんなふうにも戯曲を書けるのだなと、とてもうれしかった。
 
わたしがひと花のおいちゃんたちと関わるきっかけはもちろん假奈代さん。
二十代のわたしは假奈代さんと出会って本当に撃ち抜かれることがたくさんありました。
ということを、ココルームのスタッフの若者たちに話したら、
「みんな撃ち抜かれてるよね」とテンギョーさんが言った。
そうか、みんな、そうなんだ。 
機関銃で撃ち抜かれたみたいな衝撃。
わたしの一番の衝撃は、
 
假奈代さんはどうしてそんなに人のことで一生懸命になれるんですか?」
 
と聞いたことがあった。
假奈代さんはきょとんとして、
 
「人のことだからじゃない」
 
と、当然のように答えた。
   
假奈代さんの詩の朗読は、自然と一体だった。
ぴったりのところで風が吹いて、木々が揺れて、虫が鳴き始めて、
「一応ね、耳は澄ましているのよ」と假奈代さんは言った。
だからか! と、思った。
假奈代さんが耳を澄ますから、自然のほうも、 假奈代さんの朗読に耳を澄ますのだ。
假奈代さんは、人の世のナニカを超えていると思う。
毎回、毎回、違う言葉で、わたしは泣いていた。 
悲しいわけでもないのに涙が出る時は、
「ほんとのこと」に触れた時だとわたしは思っている。
假奈代さんの詩は、「ほんとのこと」ばかりだった。
わたしは愛と敬意を持って、假奈代さんを西成のゴッドマザーと呼んでいる。  
詩の朗読を含めて『路地裏BABY』『路地裏LADY』でした。


『路地裏BABY』の出演者たちのことを。
 
浅田稔、あさやん。24日には紙芝居劇むすびにも出演。ひと花笑劇団でも活動されていますの。大大大ベテランのあさやん。セリフいっぱいです。稽古初日、あさやんはすっかりセリフを覚えてはりました。そしてふっと言ってくれるアドリブでいろんなことが腑に落ちる。なにかがあっても、あさやんがいてくれるならなんとかなる! と、頼りにしちゃうのです。銭形平次がちゃりんとお金を赤ん坊のところに落とすところで、いつもわたしは吹き出してしまうツボでした。グイッとつかんでおいて、ふっと肩の力が抜けるようにしてくれる。座長!!
 

 
中尾和生、かずおちゃん。「釜のありすちゃん」と名札をつけてました。かずおちゃんのお洋服はいつもかわいい。そしてかずおちゃんは本当に優しい。稽古をしている時に、「あのね、ミユさん、僕ね、この子(赤ん坊)すごく可愛いと思うの。魔法をかけなくったってもう十分可愛いと思うねん」と言った時に、その優しさにわたしは思わず泣きそうになってしまった。23日は雨になっちゃったけど、キッチン舞台で、かずおちゃんはカウンターに飛び乗って「キューティーハニー」を熱唱して踊った。急に場所が変わったって、へっちゃらだよ❤️って、かずおちゃんが教えてくれました。
 

中川圭永子、けえこさん。バリバリの小劇場の俳優さん。根拠が見つかるとなにもかも早い。そりゃそうだ。ずっと劇団でやってきはったんだもの。そして我慢強い。弱音を見せない。自分で乗り越える。ぶっ倒れる直前まで、自分を奮い立たせる。BABYと並行して、LADYのお稽古。わたしは気付かないことが多くて、圭永子さんの体を酷使させてしまったのだと後悔する。後悔した瞬間に、圭永子さんの目を見る。と、わたしが目を背けたくなる。そして気がつくのだ。自分が考えていることがゆるぎがないとき、圭永子さんの目をじっと見ることが出来る。迷いがあるときは、背けたくなる。いつもじっと見つめ続けられるように在ろうと思う。
 
 
GODはGOD、たまに、りゅうじんさんと呼んだりしている。
GODも見えないことのほうが多い。
色は分かるみたいで、座る椅子は「青」と伝えると、「これやな」と手探りで椅子に触れた。
ゆっくりでいい。GODが持っている空気と優しさが、このゆっくりでとてもよく伝わる。
「捨てる神あれば、拾う神ありや」というセリフがある。ココルームの若者たちが、「あれ、一撃必殺ですね」と言った。GODの声はとても心地よい。それは、物語とその意味と必要性をとてもよく理解してくれているから、心地よいセリフとなってこちらに沁みてくるのだと思う。
 

 
慶次郎、たまに消しゴムと呼ぶときもある。
「ミユさん、俺、台本100回は読んだで。初めはわからんかったのに、読んでると、分かってくるんやな」
慶次郎さんの台本には、びっしりといろんなことが書き込んである。自信なさげな声だったのが、初日を迎えたときにはまるで別人みたいになっていた。そして楽日には、アドリブを超えて、自分のセリフを自分で考えて「俺、これ言いたいねんけどええか」とセリフを書いた紙を見せてくれました。もちろん、言っていいの。自分で考えたセリフはとっても強いと思う。


208のアラカン、我らがたけちゃん。
そこにたけちゃんがいるだけで、人間が見える。命が見える。と言ったら大げさに聞けこえるかもしれないけれど、でもそうなの。本当にそうなの。そのまんまなの。みんなで、どうしてあんなにたけちゃんはイイんだろうかと話していた時に、誰かが言った。
 
「たけちゃんは、演劇するのも、朝のラジオ体操するのも、何も違いがない」
 
シームレス。へだたりがない。それを、わかりやすくいうと、ありのままってことかもしれない。だとしたら世間で言われている「ありのまま」以上にたけちゃんは「ありのまま」だ。
 

村上晴夫、はるさん。
「私がこれまでに経験したSEXのすべて」のオーディションに受かって出演されてました。
はるさんも紙芝居劇むすびやひと花笑劇団にも出演されている大大大ベテラン。
はるさんのセリフもたっくさんでした。そしてやはり、初日には覚えてきてはりました。あさやんとはるさんのセリフ覚えは本当に素晴らしかったです。そうだ、歌から始めよう、と思ったのは、ひと花のワークショップではるさんが都はるみの歌を歌っているのをふと思い出したからでした。はるさんは繊細な心の動きがとてもよく伝わります。本当に心が震えている。お芝居って、この震えがとても大切だとわたしは思うのです。
 

歌うたいの元ちゃん。
ココルームで働いている元ちゃん。
ひと花センターの演劇ワークショップにも、何度か来てくれました。
ギターが弾けて、作詞作曲が出来るなんて、今回初めて知りました。
いろんなことを丸投げしました。
オリジナルを作ってくださいと、ただ台本を送りつけました。
そしたら素敵な素敵な歌が生まれました。
お芝居で生演奏って、なかなか芝居心がいるのです。
じゃあ芝居心ってなんだろうって考えた時に、
わたしは、出演しているみんなと一緒の呼吸になれたらいいのだと思いました。
元ちゃんは、おいちゃんや圭永子さんのことを、とてもよく知っている。
だからそれでもう十分でした。
 

黒子としてみんなを支えてくれた、まぶちゃんと教授。
ああ、黒いチューリップハット姿を写真に撮り忘れちゃった。
わたし、気づいてしまいました。
サポート力がハンパない若者って、最強だ。
タイムマシンがあるならば、二十代の自分に教えてやりたい。
彼らは他者を認め受け入れる。
二人を見ていたら、わたしもそう在りたいと思った。
 
下坂幸恵(TA-net)、さっちゃん。
去年の豊橋のPLATの舞台手話通訳付き公演『凜然グッドバイ』の稽古場通訳さんとして出会いました。演劇のことをもっと知ろうと、そこからなんとピッコロ演劇学校に通われたそうです!!…・・・す、すごい!そして去年はピンク地底人3号くんのお芝居にも出演されていらっしゃいました。おいちゃんたちのアドリブにも動じず、受けて、一緒に楽しんでくださって、さっちゃんさんは紛れもなく、出演者のひとりでした。 
 

ああ、とっても長くなってしまった。
けれど忘れちゃいけない!
チラシには載っていないけれど、ココルームのテンギョーさんとふうゆちゃん。 
ココルームのスタッフさんは、「よし、やってみよう」なんです。
ここには、Noがない。
否定がない。
だから誰でもここに来ることが出来る。
誰もが、ここに居ていい、と思える。 

おいちゃんたちには嘘がない。
ただそこに存在している。
存在したまま、言葉を自分の体を使って言う。
作家の言葉と自分の体にへだたりがない。
どれだけ多くの俳優が、そう在りたいと思っているだろうか。
ふとわたしは思った。
クオリティってなんだろうか。
 
わたしは、なにかの演劇を否定したいわけでも、
おいちゃんたちとの演劇を肯定したいわけでもない。
 
わかりやすい言葉で限定しないこと。 
それだけ。

いろんな演劇があっていい。
いろんな演劇がないと選ぶことができない。
選ぶ行為は、自分の世界を自分で構築していくことだ。
 
西成でおいちゃんたちと上演する演劇があっていいし、
キャパ50人の小劇場の演劇があっていいし、
1000人の大劇場の演劇があっていいし、
野外劇があって、子どもの演劇があって、
手話の演劇があって、音声ガイド付きの演劇があって、
 
あなたが観たいと思う演劇があって、 
そしてそれをあなたが選べることが大切なんだと思う。
 
誰かが作りたい演劇と、
あなたが観たい演劇が、

あるいは、

あなたが作りたい演劇と、
誰かが観たい演劇が、

それがたまたま合致したら、とっても奇跡だと思う。
 
わたしは毎回毎回、演劇で奇跡を作っているのだと思う。
もちろんそれはわたしの奇跡でしかない、
けれどそれを確信できたことが、とてもうれしい。
 
 
願うことはひとつだけ。
みんないっぱい長生きして。

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