『あらわれるげきじょう』雲南公演はオンライン稽古でございました。
わたしひぐだけが雲南におりませんでした。
公演は生身で、チェリヴァホールで無事に上演できました。
お稽古をオンラインで出来るものかしら。だけどやってみなくちゃ分からないものねと始めたオンライン稽古。もちろん、対面でお稽古したほうが良いと分かった上での選択でした。
実際、さて、どうだったか。
初めのほうの稽古ブログでも書きましたが、同時に比べることが出来ないからこれはなんとも言えませんが、「もう、全然伝わらない!」みたいなことは、ひぐの感覚では全くありませんでした。音が少し乱れる、少し話し始めが途切れる、などはありました。見ているひぐちのパソコンの音を消音にすることでこれはなくなりました。 俳優二人にも、なにか具合の悪いことはないかと稽古終わりに話しもしましたが、
「もうー!イライラー!」みたいなことはないようでございました。
「ああ……案外……出来るもんなんだなぁ……」という感覚だそうです。
でもこれには条件があるんだろうなと思いました。
俳優同士は同じ空間にいること。
何度も一緒に創作をしていること。
なにを大切にするのかを、共有できていること。
互いに依存していないこと。
少人数であることも、関係しているかも。
稽古を進めていくうちに気づいた「ああ、これはオンラインじゃ無理だな」案件。
テクニカル。
これはオンラインでは本当に分からないのだと思いました。
発語の意図、せりふの解釈などはマイクを通してもそれはつかみ取れると思ったけれど、
肉声は絶対に分からない。
全てがマイクを通しての声になる。
だから、会場での肉声の体感が分からない。
照明も、zoomで見るときと、facetimeで見るときの色味が違う。
わたしの体がそこにいないことで、今までは肌や空気で「見て」いたことが、
パソコンからは「見え」ない。
会場の広さとか、
会場の温度とか、
お客さんが持ってくる空気とかざわめきとか。
それは、そこに居る俳優たちに聞くしかないのだなと思った。
振り返って、「ああ、そうか、雲南の誰かに演助を頼めば良かったんだ!」ということに気づく……いやん、気づくの遅いわたし!!
けれど、今回のコンセプトは「俳優たちのレパートリー」だから、俳優同士でテクニカルのことを気にし合うほうがいいな、とも思いなおした。
大原さんが普段から照明スタッフをお仕事にしてはることも、とても助かりました。
そして最大のオンランの問題!
20日の14時からの楽日。
始まってちょうど半分くらい過ぎたとき、
「あれ……? 画面が、止まった……?」
と、思った瞬間、
パツンと、切れてしまった。
あ、切れた…………
そうなんです…………
楽日に機械のトラブル!!!
真っ黒な画面を目の前に、ひぐ、一瞬カタまる。
ここで、facetimeをかけたら、プルルルルって音がするし、映像のもっちーさんに電話をして音声だけでも聞かせてもらうっていうのも出来なくもないけど、それはどうやっても微かなこちらの音が漏れるだろうし、うーん、チェリヴァさんに電話してどうにかできないかを相談するとか、うーん……
一瞬のうちにいろんなことが頭をよぎる。その時に感じたこと。
「ああ、演劇って、本当に体験なんだな」
わたしのパソコンは切れて、画面はなにもうつさない。
けれども、遠く離れた雲南では大原さんといたがきちゃんは、「あらわれるげきじょう」の物語を紡ぎ続けている。わたしは見れてはいないけど、ないわけじゃない。
在る。
在るんだなぁと思う。
そして半分まで体験してきたわたしは、「この先もきっと大丈夫だろう」と感じる。もし大丈夫ではなくても、いつだって幕が開けば演出家は見つめ続けるしかない。
後半がどうであったか、本人たち自身の振り返りを聞かせてもらおう。
と、演出家のわたしは思った。
もうひとりの、本当に本当に個人的なわたしは、「もう1回観たかったなぁ」と素直に残念がる。けれど演出家のわたしが「来年もやるから」と答える。個人的なわたしが「そうか、うん」と納得する。
ジタバタすることを選ばずに、わたしはカフェラテを飲んだ。
上演終了後にトラブルが分かった時に、俳優ふたりはとても残念に思ったのは当然だと思う。
見ることが、演出家の一番の仕事だもの。
機械のトラブル。今までに一度も起こったことがないのに本番楽日で起こったりする。
トラブルあるあるだ。
だからこそ。
当たり前の「演劇体験」ってことを強く体験した。
パチンと切れた瞬間に、失くなった瞬間に、分かることがある。
オンラインでも、やっぱり「演劇体験」なんだなぁと思った。
劇場という場所が持つ力、または空間を同じところで過ごすことは、
もうすでに一体感を体験している。
ここで何かが起こったらもう一蓮托生。
つまり、自分の問題になる。
画面で見る演劇映像配信がどうも集中力を欠く、という経験をわたしもしたことがある。
だけどオンライン稽古や、オンラインで本番を観る時には集中力は続く。
自分のことだから。
自分の問題ではないことに、なかなか集中しずらいのが現実だもの。
自分のことにするために、人はそこに集まるのかもしれないなと思った。
わたしたちはあらゆることを体験したいのだ。
自分の人生では体験できないことまでも。
だから演劇ってあるんだな、と思った。
雲南公演が実現できたことに本当に感謝します。
大原さんといたがきちゃん、
チェリヴァホールのみなさん、
そしてスタッフのみなさん、お手伝いくださったみなさん、
観に来てくださったお客様、関わってくださった多くの皆様に、
ありがとうございます。
『あらわれるげきじょう』のラストの台詞。
そのまんまだなと、振り返って思う。
大原 作り物なのに本当でね、
大原 演技でしょうって言われればまぁそうなんですけど、
大原 あの指の力は本当で、
大原 嘘じゃなくって、
大原 だから、
大原 震えを、
大原 震えをね、観に来るんじゃないかって……
大原 あなたもイマ見ているこの震え、これ。イマのこれ。そのもの。生きていることのそれ。
大原 自分のことなんてよく分からないから、
大原 生きているってなんなのか忘れてしまうから、
大原 肉体のふるえ。
大原 細胞のふるえ。
大原 存在のふるえ。
大原 ふるえているのは、わたし……
大原 ……あなた?
大原 震えている誰かを観て、
大原 震えている自分を思い出す、
大原 それがわたしたちの、演劇なんだと思う。
おしまい
そして次は仙台公演『あらわれるげきじょう』が始まります❤️
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