何を選んでも、間違いじゃない

まだやることは色々とあるのだけれど。

ご予約してくださったお客様に、本当にありがとうございますをたくさん伝えたいです。

次回『君ヲ泣ク』 を上演するときにはまっさきにご連絡したいと思います。

ご優待プレゼントとか用意したい気持ちでいっぱいです。

さて、ここからはとりとめもなく書くので長くなります。

 

これで良かったのか、良くなかったのか、

という答えめいたものを今はわたしは持たない。

結果を急がないし、結果はいつも過程でしかないと思っている。

自分が人生最後の死ぬ直前に、きっといろんなことが本当に分かるんだろうとさえ思う。

え、ひぐさん、話、壮大です、とよく言われるけれど、でもそうなんだと思っている。

良いも悪いもなく、今回のことはわたしたちが選んで決めたひとつの出来事でしかない。

わたしたちが、とは言うものの。

できるかぎりなんでも言える稽古場でありたいと思いはするけれど、

人間の心の中はのぞけるものでもなく、開いて見せることもできないから、

俳優4人の思いを本当にわたしは汲み取れたかどうかは、それこそ永遠に分からない。

分からないからこそ考える。

何度かの話し合いを終えるたびに、わたしは振り返る。

自分の言葉のチョイスは的確だったか。

なにか誘導してはいなかっただろうか。 

なにか見過ごしてはいなかっただろうか。

最終的にはPlant Mはわたしなので、

みんなの言葉や空気やいろんなものをごくんと飲み込んで、

最終結論を言う。

最終的にはわたしが決め切るしかないわけだから。

それに委ねてくれた俳優4人に心から感謝と信頼を。

心の奥底など誰にも分からないから、人は人を信頼することを選ぶのだと思う。

彼らを信頼し、だからわたしは決め切れたのだと思う。

俳優たちにも、スタッフたちにも、予約をしてくださったお客さんにも、

劇場にも、関わってくださった全ての人にありがとうと思う。

稽古場でやることはやりきったと思う。

ここに劇場という要素が入り、

テクニカルという要素が入り、

最後に観客という要素が入ると、きっとあと2段階作品の厚みは増すんだろうなと想像ができるほどに、稽古場での作業は全て終えた。

わたしはお客さんに観て欲しいと心から思っているけれど、

それはきっとお客さんにお披露目したいというわけではなく、観客のあなたがそこに座ってくれることが作品の最後の完成のピースをはめることなのだと思っている。

観客がそこにいてくれることがなによりも重要なのだと思っている。

あなたが作品の一部になるんです、ということ。 

参加型演劇という言葉を聞いた時に、わたしは素直に、「え・・・? 演劇ってそもそも参加型じゃないの・・・?」と思ってしまったくらいに、座席に座ることそのものが、もう作品に参加してくれているものだと考えている。

わたしたちは稽古場で、いつも観客を想定して稽古をしてるのだ、ということに気づいてから「無観客ということはあり得ない」と思うようになった。物理的肉体はそこにいなくとも。

想定していた「観客」が、実際に劇場の座席に肉体を持って座ったときに、さてどんな化学反応が起こるのか、それを観る。

だから劇場は面白いし、演劇は面白いのだ。

そして、稽古だってやっぱり面白い。

稽古は過程。

そして本番さえ、わたしには過程だ。

あくまで、わたしには。

本番のために稽古があるのだとは、わたしには到底思えない。

稽古という日々を積み重ねたら、

観客がそこに座っているから今日は本番だったというだけだ。

これもまたあくまでわたしにとっては、である。

俳優たちにはきっと、また違う捉え方があるのだと思う。

「1週間ごとに未来を設定する」ということで稽古を進めてはきたけれど、

「頭の片隅に本番は在る」のが俳優だし、そうであるべきだとも思う。

中止のことを制作の吉川つんさんに伝えると、

「ひぐさん、ちゃんとステップアップしてますよ。去年は稽古を始める前にもう中止になっていて、今年は稽古が全部終えられた、段階踏んでる」

確かに。

今回は、劇場とテクニカルと観客の要素は、くわえられなかった。

けれど、稽古で得たことは決して消えない。

俳優の身体に染み込んで熟していくと思っている。

わたしは、観客は作品の一部と思っていて最も重要な要素のひとつだと考えている、このことがもしかしたら観客に対して失礼な考え方だと捉える人もいるかもしれない。

そう思った方、ごめんね。

わたしはあなたのその考えはきちんと受け入れた上で、わたしの話をするね。

「お客さんに観てもらえないと意味がない」とは、わたしは思わない。

というか、その言葉を使うことに慎重になりたい。

観客は絶対に大切なのだけれど、

「意味がない」と言ってしまうと、

稽古の日々、そこに費やした自分たちの力、時間、それら全てを、実は「意味がない」と指し示してしまうことが起こると思っている。

それって大きな矛盾だ。

矛盾は人間から力を奪う。

これまた、ひぐさん、そんなオオゲサな、と言われる、だけど。

「お客さんに観てもらえないと(稽古の日々が)意味がない」

ささいな言葉。

しかしわたしたちはささいな言葉で出来ている。

人間は日々の小さな小さな積み重ねで生きている。

これを言い続け、繰り返し言うたびに、

「(お客さんに観てもらえないと)自分たちのしていることは意味がない」

と身体に染み込ませていることに気づかない。

不要不急という言葉に敏感に反応し、落ち込むなら、自らの言葉を振り返ってほしい。

日々の稽古には、稽古の意味がある。

本番のために稽古があるんじゃない。

意味のある稽古を積み重ねたその先に、本番があるのだ。

と、わたしは考える。

稽古をやりきったから、このメンバーのレパートリー作品を作れたと思う。

だから、よし、いま、出来る!

と、みんなのスケジュールとタイミングあったら、

1年後でも、1週間で幕は上げられるなと思っている。

だからもしかしたらイキナリ、どこかで上演するかもしれない。

そんな可能性がある。 

だから、過程なのだ。

そしてきっと上演するのだろう。

最後の話し合いのなかで、わたしは「バランスと折り合い」という言葉を、

自分のなかで見つけた。

ここ1週間の間に、なんともいえない空気と変化をそれぞれが感じ取ったように思えた。

わたしもそうだった。

きっと、ニュースを見たり、スマホから入ってくる情報を見たり、

みじかに起こる出来事を直視したり、

自分たちにとって(しかしそれは社会にとっても)表現の大切さを知っているからこそ、

どこまで出来るだろうか、どこまで進めるだろうかと考える。

2020年の非常事態から、2021年に異常な日常を生きてきて、

ここでまた自分の内側でサイレンが鳴った、ようにわたしたちは感じたのだと思う。

稽古をしていて、

自分が書いた文字を、俳優が生きた言葉にして声にした時に、

ドキリと胸をつく。

 

三女 ダメ。考え続けるんだよ。言い続けるんだって。今すぐにはダメでも、考え続けたら絶対DNAに刻み込まれるんだって、進化のレベルにまで行かなきゃ、今、私らは新しい人間のもとを創るための土台なんだよ。100年先の、ううん、もっと、1千年、1億年先の人間のための、

次女 なんで?

三女 え。

次女 なんであるかどうかも分からない未来の人間のために私が考えなきゃならないの? 誰が考えてくれたの、私の今、あの子の今。100年前の人間? 1千年前の人間? 1億年前の人間? 誰がよ?

 

最後の稽古の通しで、わたしはドキリとしたのだ。

コロナの最中でも、表現は必要だと思っている。

しかしそこには、バランスと折り合いが必要なのだとも、思っている。

コロナ禍のなかで、上演をする団体に大きなエールを送りたい。

同時に、中止を決めた団体にも大きなエールを送りたい。

そして今は動かないと決めている人々にもエールを送りたい。

なにかも自由だ。

それは解放からの自由という意味の自由ではなく、

なにも制限がない、という意味の自由。

この自由は、全て自分たちで考え、自分たちで決めて、自分たちで実行しなければならないという意味だ。今、わたしたちは、なにも制限をかけられていない。

未開のジャングルを歩いていくようなものだと思っている。 

またまたオオゲサな、であるけれど。

何を選ぶか、選ばないのか、なぜそうするのか、そうしないのか、どうしたいのか、

どうするべきなのか、きっと、それぞれの表現者たちがその現場現場で話し合い、

決断して、進んでいく。

何を選んでも、間違いじゃない。

だから考え続けて、自分たちが選ぶ道を全うしてほしいと、全ての表現者に伝えたい。

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