先週の土日はお祭りやったなぁ……と、振り返ります。
先週の土日は公演やったなぁ……ではなく、お祭りやった、のほうがとってもぴったりの『祭礼2021』 でございました。
明日と明後日の週末土日まで、アーカイブが観られるようになっております。たくさんの方が観てくださっているようで、本当にありがとうございます。
振り返って。
思う。
客席は、空ではなかった。
もう一度、3人の宣言文を記載しておこうと思う。
「宣言出されたから、こっちも宣言出したらええねん」ときしもんが言った。
ほんとだ。
それいいね。
この時、わたしたちは扉の向こうを想像してもらおうと考えた。
『祭礼2021』を経験して、客席に果てしないお客さんたちを想像した。
Plant M+takayasu kagura 『祭礼2021』 無観客上演無配信 宣言文
樋口ミユ
これは苦肉の策ではない。
けれど、コロナ禍だから試みる。
限られた劇場の時間の中で、平日公演にスケジュール変更することは出来ただろうか?
超特急の急ぎ足ならば出来たかもしれない。
しかしそれこそ苦肉の策ではなかろうか。
高安さんと岸本くんの二人芝居だったらこの形態を選んだだろうか?
いや、きっと中止するだろう。
俳優にとって、空の客席に向かって芝居をすることほど虚しいことはないからだ。気分のことを言っているわけではない。俳優の体から発生した言葉や空気は観客の体にぶち当たって天に昇る。昇華しない言葉は虚しく虚空に漂う。だから演劇には観客が必要なのだ。
しかし、『祭礼』は演劇であって演劇でなし。
神楽であって神楽でなし、とも言えるが神楽ボルテージを上げてみると、
ふたりは空(くう)に向かって舞えるのだ。
神に向かって舞うことは、ある意味、空(くう)に向かっている。
そして神事が持つ秘匿性。
見えないこと、見せないこと。
おや、そうか、ちょっと待てよ、その考えもうちょっと発展させてみようぜ。
見えないこと、見せないこと。
だから人は想像する。
これはナンだろう? と想像する。
想像とは突き詰めれば、
「なぜ自分はこんな気分になり、こんなことを考えるのだろうか。自分とは。わたくしとは」
という内省につながっていくと思う。
これって演劇的行為だ。
わたしたちは『祭礼2021』という作品をもって、土日無観客上演と映像配信を丸ごとCreationしてやろうとペコちゃんのように舌をペロリと出して試みるのであります。
上演後のアフタートークは、今回の試みについて高安さんと岸本くんとたくさん話します。
こちらもぜひご視聴ください。
そして、今回のわたしたちの妙な試みを受け入れてくださったメイシアターに心から感謝いたします。
〜 扉の奥で起きていること、みえないものを想像する試み〜
高安美帆
緊急事態宣言の延長を受けて、土日に公演を予定していた「祭礼2021」は有観客での公演を中止しました。
そこで、無観客公演ってなんだろうって考えました。
でも、演劇で、無観客公演はあり得ない。
いやちょっと待てよ。
私は、同じような体験をしたことがあるなと思い出しました。それは神楽を舞う時です。
参拝者のいない神社で祭典をしていた時、私は、誰もいないのに、神楽を舞っていました。
空に向かって、誰の目にも触れないけれど、ただ粛々と舞う。
それは、なんとも言えない感覚で、私はその時間が好きだったなと。
「祭礼2021」は、島根の石見神楽、大阪の浪速神楽という地域で伝承されてきた郷土芸能を題材にした演劇作品です。作品の中でも神楽を舞う場面があります。
「誰もいない劇場で、この作品をパフォーマンスしてみたら、どうなるのだろうか。」
メンバーと話し合っているときに出た言葉に、私は小さな興奮を覚えました。
私たちは、上演時間中、劇場の扉を閉めて籠ります。
私たちは、この機会に、籠るという部分に着目してみることにしました。
日本の祭祀、風習には、「籠る」例が沢山あり、お祭りの本質であるといわれています。
例えば、石見神楽の「岩戸(天岩戸)」と言う演目では天照大御神が岩の奥に隠れるという演目がありますし、祭典の中で一番大切なものは、慎重に隠されていて、その全貌は見えません。
想像するしかない。
みえないものを想像すること、それは人間に備わった特別な力のような気がしています。
早く皆さんとお会いできますように。
〜 いま、あの場所には、確かに誰かがいて、何かをやっている 〜
岸本昌也
5月28日、緊急事態宣言の延長が決定し、土曜日・日曜日の有観客公演ができなくなりました。『祭礼2021』は6月12日(土)・13日(日)に開催を予定していたので、宣言の延長は、私にとって公演の中止勧告のように思えました。
メンバー、劇場の方々と話し合う中で、なんとか中止にしない方法を考える。
有観客上演ができない、であって、無観客上演はできる。
劇場の扉は閉じてしまうが、上演はできる。
いまの状況をひとつひとつ確認していくうちに、
「観客のいない劇場で、作品を予定通り上演する」という方法にゆきあたりました。
「いま、あの場所には、確かに誰かがいて、何かをやっている 」
中に入ったり、それを見ることはできないけれど、扉の向こう側・隔たりの向こう側に思いを巡らせたり、
想像することはできる。
なんだかものすごく偏った考え方のような気もするし、「それは意味があるの?」という声が聞こえてきそうな気もしますが、その閉じられた、誰も見ることのできない上演のことを考えると、私はとてもワックワックしますし、やってみたいと思いました。
コロナ禍になって、人と会うのが憚られるようになったのをきっかけに
「ここにいない人を想像する」についてよく考えるようになりました。
物理的に会えない人/もうこの世にいない人/過去の自分/扉や隔たりの向こう側の人/自分と異なる属性や性質を持った人/戯曲に登場する人。
「ここにいない人を想像する」というのは、上演行為を演る側にも、観る側にも大事なトピックのように思います。
そして、祭礼シリーズはこれまで神楽を題材に上演を重ねてきました。
神楽には、「誰もみることのできない儀式・誰も見ていなくても実施される儀式がある」「呼び寄せる」「願いを掛ける」「人々がコミュニティをつくるきっかけとなる」「依代となる」「見立てをする」という側面があります。それらは演劇における「ここにいない人を想像する」と、とても重なる部分があると思いました。
神社で買える、おまもりに何が入っているか知っていますか。
外から触ってみると、布のようなもの・紙のようなものが入っていることがわかります。実際に中身を出したことはないですが、確かに何かがそこにある、そしてそれは私にとって意味のあるもの、お守りがお守りとして機能するために意味があるもの、に思えます。
閉じられた劇場の中で、なにかが起こっている。
その中身を想像してみる。
この上演が、そのきっかけになればよいと思っています。
ライブ配信のアーカイブは20日(日)まで無料でご覧いただけます。
同じく日曜日までPlant M'storesにて、ポストカードや、お手紙、
そして本番映像の販売をしております。
ポストカードとお手紙は6月末のお届け。
映像は編集などございますので7月末のお届けとお時間いただいております。
映像はデータでもご覧いただけるようにご案内いたしますが、
DVDにしてお送りします!
な、なんでDVD!?
お祭りのあとは、なにか手元に残るものを!
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