樋口さん、最近何考えてますか その2

書いてしまうものは、書いてしまう。
書き留める。
書き記し。
常に孤独に書くもので、
作家ならばそうでございましょう、

と、思った前回の「樋口さん、最近何考えてますか」

では、演出家は。

4月にひとつ、公演延期となって、秋あたりにできれば、と。5月にもひとつ、公演が出来るようになるまで延期、となって。8月にもひとつ、公演予定がある。もちろん現実的な上演については状況を鑑みて、なにかと判断、決断はしなければならないからするしかないのだけれど。

劇作は衝動で、ああ、もう書いちゃった、となる。
だってそこに紙とペンがあったから。
だってここにキーボードがあったから。
流れる衝動の結果が文字に、なってしまった。

演出はちょと違う。

なぜ、いまこの作品をするのか。
どこでするのか。
誰とするのか。
具体的な金銭的なことも含めて、
衝動だけで公演終了お疲れさまでしたぁ……
まで続かない。

これは全て「私の場合」でしかない。作家も演出家もいろいろでございますもの。全ては、自分が考える演劇、についてしか誰も話せない。自分が思う演劇は、イコール「みんなが思う演劇」ではないかもしれない。

と、考えるのも、私にとって、でしかない。

だから、今の状況で無観客上演をしようと思うのも、動画で演劇を届けようと思うのも、それは演劇として認められないと思うのも、それぞれが突き詰めて考えた結果であるなら、それぞれの大事な演劇なのだと思う。

みんなやってるから、
なんかとりあえず、やっておこう。
みんなやんないから、
なんかとりあえず、やめておこう。
で、なければ。

自分にとって必要だと、考え抜いた結果であれば、
きっと自分を裏切らないと思うのであります。

演劇について日々考えるなら。

朝起きて、ご飯を食べて、日々のことをして、仕事があるなら仕事に行き、テレワークならテレワーク、仕事なくて家にいるなら家にいて、お腹が空いて夕飯食べてお風呂に入って眠る間に、この状況で日々演劇について考えているなら。

これからの不安や恐れのことではなく、
演劇そのものについて考えるなら。

もうそれが劇的だ、とさえ思う。

人間はたぶん変化を嫌う動物で、脳がいつもの行動を取りたがる(戻ろうとする)

いずれおさまったら、収束したら、
と考えやすいしそれは誰もが、みんなの願いだから。
いずれおさまったら、収束したら。
今までどおりに。
いずれ。
けれど、そうはならなかったら。
というコトも大いにある、かもしれない。

とりあえず落ち着くけれども、
今までどおりの上演形態には戻れない、とか。
いつまでも落ち着かない、とか。
落ち着いたと思ったら第二波がやってくる、とか。
ウイルス自体は落ち着いても、
人の思考回路に入り込んだコロナショックという恐怖が、今までの演劇というカタチを受け入れない、とか。

あるかもしれないし、
ないかもしれない、
いつだって未来はよくワカラナイ。

今までどおりの劇場、座席、客入れ、上演、
どれだけ換気をしても
どれだけ消毒しても、
どれだけマスクをしても、
もうなにひとつ戻らないかもしれない。
とも、考えられるし。
急激な好転だって考えられる。
急激に収束。
急激にワクチン。
インフルエンザのように予防接種で安心、
までになるとか。

でもやっぱり未来は予測不可能。

そして演劇のことについてのみ考えることがもはや私には不可能になり。

演劇の上演形態どころではなく、もしかしたら国そのものの考え方も変わるかもしれない。自由資本主義ってものが終わりを迎えるかもしんない。なんて考えが飛び越えていってしまうこと、しばしば。だからきっとまだ演出家の私は考え続けているのだと思う。まだ突き詰められていないから。経過しか、まだない。

音楽は、歌は、
空に抜けて天にぶち当たって、
雨みたいに人々の上に降りてくるのだと思う。

けれど演劇は、
役者の肉体を使って
言葉や空気や物語を人々にぶち当てて、
天へと昇華させるのだと、思った。

さて、では。
ぶち当てる方法をどれだけ考えられるのかしら。
既存のやり方?
それとも全く新たな方法で?
そもそもぶち当てないの?
だとしたらそれってどういうことになるのか?
それとも ただ場所という概念を変えるだけ?
まだぜんぜん考えが詰まらないからわからない。
それを考えたこところで
たとえ実行に移すことがなかったとしても、
本当の意味で、
まぁきっと無駄ではないんだろうと思うから、
考えているのでございます。


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