お稽古と、深津さんのこと

本日のお稽古。
みっちー先生がやってまいりました。
通しを見てもらって、どんなふうに体を動かすのかを考えてくれます。
頭から最後まで観たあと、
みっちー先生がつぶやく。

「けっこう・・・(お芝居、激しく)動いてますね」


「地味にしんどいっすねぇ・・・」

と、とみさん。
見目麗しいけれど、しゃべるとガテン系。

実奈ちゃんはこの前、

「こんなに動くの、初めてかもしれないっす・・・」

見目麗しいけれど、しゃべるとガテン系。

その上に、さらにみっちー先生のダンスが入るわけでございます。
苦しい・・・でも、ガンバる!! ポーズ。
苦しいときこそ、指先まで。
魂は細部に宿ると思っておりますので、
ささやかなことを丁寧に。


先週の日曜日、25日に深津演劇祭の後夜祭がありました。
ワタクシは東京でお稽古でしたので参加できませんでした。
素敵な後夜祭。
演劇祭に参加させてもらって感謝でございます。
参加できなかったので、コメントをお送りしました。
当日は桃園会のはしけんが読んでくださったそうです。
ありがとうございます。

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宝探しは宝を求めて冒険をする。
目的は、宝。
あるいはその過程の、冒険そのもの。
宝探しはたいへん分かりやすい。

深津さんの言葉は、瞬間の変化の発見だ。

旅の道すがら、
足元に転がる変わった石ころが、
なんだかちょっと気になるから拾っておく。
ポケットは変わった石ころでいっぱい。
あてもなく歩き続ける。
ふとポケットの石ころが震えたような気がして覗き込む。
と、
さっきとは少し違った石たちに見えはじめる。
いつ変化したんだ? 
と、じっと見る。
見つめる。
見つめ続けると、
石ころの色が変わり始める。
太陽や月の光を受けて、
キラリと光ってそのうち、
自分の手の中で宝石に変わっている。
ああ、拾ったあの石たちは宝石だったのだと、
今、この瞬間に発見する。
宝探しとは、まったく、ずいぶんと違う。
じっと見つめることで、気づかされる。

blue filmは発見の連続だった。
「正解」ではない、「発見」
チラシに深津さんの写真を使わせてもらい、
それを横に置いて稽古をする。

「さて、樋口、お前はどう読むんだ?」

と、問いかけられる。

(なんて、私がそう感じているだけなのだけれど)

「俺が書いた正解を探せ」などとは、決して言わない。

(なんて、私がそう感じているだけなのだけれど)

「お前がどうするか、だろう?」

自分の脳内の声なのだろうけれど、きっとそう問いかけている。

あのですね、深津さん。
わたしは2018年という「今」を立ち上がらせることでしか、
この戯曲と向かい合えないと思いました。
わたしと深津さんの距離。
あの朝焼けから、2018年という距離。
在る肉体と、無い肉体の距離。

もっともっと、深津さんと距離がある若い人たちが
石ころが宝石に変わる瞬間を体験出来ればと願う。

                     Plant M 樋口ミユ

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