唐組、女子たちは作業にて

お稽古だけではございません。
公演のいろんな準備をいたします。
チケットにハンコを押したり、
DMの作業をしたりいたします。

作業の休憩時間に由紀さんが梨を剥いてくれまして、大変美味しゅうございました。
たくさん届いた梨・・・
当然のように、由紀さんはTシャツにふたつ入れて自らボインをつくって堪能したあと、

由紀「ほら、美仁音も。ちょっと、胸に入れておきな。ほら、悟巳ちゃんも」

当然のように渡す。

というわけで、
向かって左が悟巳さん。
右が美仁音さん。
ボインたち、ゲームのキャラクターとして違和感なしでございます。
立証。異様にボインにすると、2・5次元率が上がる。



ふと、劇団のことを思い出すのでございます。
思い出すといっても、アグリっ子たちとはLINEでなんだかんだ、
大阪に戻ればいつも会っておりますが。

劇団であったころの「私たち」を思い出すのでございます。
ハンコ・・・押したなぁ。
チケットの裏側に、キリトリ線のところに劇団印のハンコを割印したなぁ。
ウルトラマーケットのときに立て看板作ったなぁ。
チラシ数えたなぁ。
なんでアレ、数え間違うんだろうなぁ。
数が数えられない病に、誰もが一度はかかるなぁ。
小さな作業をそれぞれがひとつずつ積み重ねて、
劇団は成り立っていたなぁと思うのでございます。
劇団の時間を知っているのと、知らないのとでは大きく違うんじゃないかと思う。
公演に行き着くまでの様々を。
道のりを。
過程を。
それは私が劇団をやっていたから思うことなのかもしれないけれど。
can tutukuやcocoromiも、劇団とは少し違うけれど積み重ね積み重ねだったなぁと。

アグリっ子だった劇団の日々は、幸せな時間だったなぁと思うのです。
plant mの今は、その幸せのさらに向こう側の豊かな時間だなと思うのです。
劇団の時間を過ごさなければ、現在には至らなかったなと。
時間が過ぎれば、考え方も人間そのものも変化して、時代も社会も移り変わって、
価値観やら日常ベースもものすごい速さで変化して、
ちょっと前のことがあっという間に過去になって、
それでも人は表現することを続けるとは、どいういうことなんだろう。
私はたぶん、そんなことをずっと考えているんでございますな。
どこから来て、なぜここにいて、どこへ行くのか。

コメント