祭礼は年に一度は上演したいものでございます。

「祭礼2016」koefes version が無事に終わりましてですね。
たった数日のお稽古だったのですが(というか、「祭礼」はいつもそう)
ぎゅぎゅぎゅうっっっと凝縮圧縮濃密濃厚な数日間でございました。
なんだか神楽の舞と同じ感じでございます。
一瞬のようだけれど、永遠に「祭礼」をやっているような気持ちになるのでございます。
時間は一瞬の連なりで、今の一瞬が次の一瞬を呼んでくるのだと思っていたけれど、
「祭礼」をするたびにそれは違うと感じるのでございます。

一瞬で始まって、一瞬で終わる。
全て終わって、全て始まっている。
連なるのじゃなくて、一瞬が宇宙の全て、みたいな気がするのです。

神楽の舞は、繰り返し繰り返しの動きがたくさんございます。
「同じうごきやー」
と、思えばそうだけれど、やっぱり同じ繰り返しでも、
同じではないのです。

四つ角、四角を描いて歩く。
斜めに横切る。
さっきと同じ足運びだけれど、やっぱり違う。
一周目とに周目は違う。
でも永遠でもある。

オオゲサな話ではあるのでございますが、
なぁんでお芝居をやってんのかしらぁと考えますとですね、
どうやったら宇宙まで繋がるのか、
とか、
どうやったら宇宙まで飛べるのか、
とか、
そんなことを考えているわけなんでございます。

「祭礼」をやっているときは、確実に宇宙に飛ぶんでございますな。
それは言葉がないからなのかもしれない。
いんや、やっぱりあの舞の繰り返しに秘密があるのかもしれない。
でも、言葉があるものは、きっと言葉を使いながら宇宙に飛べる方法があるんだろうなと思う。きっと方法が違うだけで、たぶん言葉を紡いで宇宙に行けるはず。
それをひたすら探し続けるのでございます。

年に一度、「祭礼」に取り組むと、
とてもとてもシンプルに創作と表現のことを考えることができるのでございます。
全て自分に返ってくる。
だから毎年「祭礼」が上演できるといいなと、思うのでございます。



「神楽とはいったい何でしょうか。
 “かぐら”と聞いて想い浮かぶ言葉は何ですか」
 
その問いかけは、観客に任せようと思う。


この言葉で、上演土台テキストを締めくくっているのでございます。
神楽とかぐらの言葉を、演劇とえんげきに変えてみたって、
いいと思う。

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