メニューのないディナー

お仕事の関係で、ひょんなことからディナーをご馳走になりました。

当店メニューはございません。

てなお店なのでございます。
ワゴンに膨大な前菜料理が並んでやってまいります。
膨大な料理の皿を、ひとさらひとさら説明するというプレゼンがございます。
どれにいたしますか、的な。
何品でもかまいません、的な。
なんちゃら産のなになにというトマトでございますが、
調理法はどうなさいますか、的な。
メインもお魚、お肉がまるごとワゴンに並べられゴロゴロやってまいります。
あわびのソースはどうなさいますか、的な。
あらそうね、では肝を使ってソースにしてくださいませんこと? 的な。
デザートも山ほどワゴンに並べてやってまいります。
いちごは4種類ご用意いたしました。食べ比べなさいますか、的な。
この感覚は何に近いのだろう。
百貨店の地下食品売り場に近いのか。
その中からどれにいたしますか、と聞かれているようでございます。

ごちそうさまでした。
大変おいしゅうございました。
久々に料理の鉄人を思い出し、またあれ観てみたいと思いましてよ。
アルキュイズィン、でございます。
ミスター味っ子実写版でございましたな。

ワタクシ、食にあまり興味がない青年時代を送っておりましたが少しずつ、少しずつ、
食べることについて考えることが出来るようになってまいりましたな。
今、口にした大根はどこかの土に埋まっていたと思えるようになると、
それを運んだ誰かがいて、それを作った誰かがいる、と
「食物」について考えられるのでございます。
そんでもって今、口にした大根が胃袋に入って私の一部になるのか、と理解が出来た時から、
「生きる」について考えられるのでございます。
過去10年の食べ物によって、今の自分が造られているそうでございます。

ワゴンにゴォンとお肉の塊が並べられているのを見て、
肉の旨味を想像できるのと同時に、寒気を感じるのでございます。
かつて生きていたものを、私は今から食べるのだ。
と、寒気を感じる。
けれどワタクシは菜食主義者でもないから肉の旨味に身をゆだねるのです。
味わいながら、うまいと思っている自分に嫌悪感を持つ。
たまに吐き気を感じることもあるけど、気のせいだと流す。
脂質と糖質がうまいと謳うCMに頷いたりするのだ。
何も食べたくない。
という日々がある。
それは生きたくない、という意味ではなくて、
余分なものを食べたくない、ということでございます。
水分だけで今日は大丈夫だろう、という日。
稽古が始まるとだいたいそうなる。
ましてや、小屋入りしたらもう何もいらない。
すると妙なことに、体調が良かったりするのだ。
食べ過ぎると身体が腐敗していく気がする。
飢餓状態になると動き出すサーチュイン遺伝子のことを思い出したりする。
昔の人が、腹八分目と言ったことは間違いなく正しい。
身体に蓄えられた栄養分で人間は何日かは生き延びられる。
「半年何も食べなくても大丈夫!」
と、太鼓判を押された友人がいる。
なるほど、見るからに大丈夫そうな友人なのでございます。
何を、どれだけ口にして、何によって、自分はこれから生かされるのだろうか。
うまいなと口に運ぶたびに、考えてしまうのだ。


スプーンに乗っかっているのは、イチゴという姿をした未来だと思った、のでございます。












 

 
 









コメント