KU-TO10をふりかえってみる。

まだ10日くらいしか経っていないのに、とても随分昔のことのようでございます。

KUTO-10 『血、きってみる』

40代はすげぇ。
そんな現場でした。
枯れているようで、枯れていない。
本気でやるくせに、その本気を出来るだけ見せない。
つまり、やせ我慢する。
それはとてもカッコイイことだと、私は思うのです。
必死です!頑張ってます!
という時代を経て、きっと今があるんだろうなと思うのです。
昔、ある人に、
「もうお前らの頑張りは見たくない」
と言われたことがございました。
ああ、そうだなー。と。
頑張るって、当たり前だから。
それ見せちゃカッコ悪いんだ。

KUTO-10はやっぱり工藤さんと久保田さんと保さんがいてこそ、KUTO-10なんだと
改めて思った現場でした。

そしてじぃっと稽古を見つめ続けて、分かったことがある。
岩崎さんは役者を自由にさせるのだ。
自由になんでもさせる、という意味でございません。
役者そのものを「自由」な状態にするのです。
長い時間をかけて。
「自由」になればもうこっちのものですから、それからいろんな要求が飛び交います。
でも役者はもう「自由」になっておりますから、その要求をクリアしていくんでございます。
しかしクリアできなことだってあります。
それはその役者にとって、次の課題になっていくのです。
叩き叩かれたって結局課題は残るもので、私が思うところの「岩崎方式」は
その課題をいかに反発なく役者に気づかせるか、ということなのだと思いました。
これって、すごいことなんだ。

「君の戯曲は裸を要求する」

と、岩崎さんは言いました。
そうかもしれない、と頷きました。
エロいってことではございません。
私の戯曲の中に、岩崎さんは人間根本を見てくれたのでした。
私はひまわりが出てくるシーンがとても好きでした。
それは生きているものだったからです。
ああ、そういえば、岩崎さんの戯曲も演出も、いつも生者と死者が登場する。
カタチは変容するけれど、いつも登場すると私は思っているのです。
それは岩崎さんが死者の思いに敏感だからなんだと思うのです。
種から始まって咲いて、枯れて、老いて、また種になる。
めぐって終わらない。
永遠なるもの。
それを追い求めると、ひまわりが登場するのです。


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