本番が終わってからお仕事立て込んでおりまして、ああでも少し息抜き。
ずいぶんと遅くなりましたが、
『げきじょうのひ #1 序と云い切れズ』ふりかえりです。
ふりかえってみると、わかることがある。
後付けってことも確かにあるけれど。
いつだって、何もかも明確にかっちり決めているわけではない。
この方向だろうかなぁと霧の中、見切り発車する。
得意ね、見切り発車。
この乗り物、ブレーキはないけど、ハンドルとアクセルで乗り切るから。
みたいな。
自分を丸ごとエイヤと投げ出す見切り発車。
乗り込んでくれた座組のみなさん。
今回は上演の時のようなお稽古ではなく、
なんだかヨクワカラナイこの公演に出演してくださった役者の皆さんに本当に感謝です。
スタッフの皆さん、お手伝いくださった皆さん、芸術創造館の皆さん、
お世話かけまして、本当にありがとうございます。
まずは役者紹介を✨
ツルコの大木実奈さん
演劇ユニットnoyRでたくさん一緒にお芝居を作って、気づけばもう10年以上の時間を過ごしておりますが、いまだに初めましてから始まります。あは。とは言うけれど、とても信頼している俳優さんの一人であります。 実奈ちゃんの指摘はいつも鋭く、気付かされることがたくさんある。そこから私の考えが深く伸びていけるから面白い。「ひぐさん、ストイックですね」と言うが、いやはや、あなたこそ、といつも思います。
屑の田宮ヨシノリさん
屑は役名です。田宮氏はまったく屑ではありません。超好青年です。前回の『WWW』のオーディションを受けてくれはったので、出会うことができました。本当にありがとうです。出会ったなら、共通言語をお互いに育んでいきたいなと思うひぐなのであります。分からないことを「分からない」と真っ直ぐ伝えてくれることがとても嬉しく、やはりそれは次の発展に繋がっていくのです。
まぼろの毛利あかりさん
あかりさんも『WWW』のオーディションを受けてくれはって、それが『げきじょうのひ』に繋がっております。出会えるってすごいことだなぁ。受けてくれてありがとうです。演劇の皮膚感覚とか、肌感覚というものがあったら、あかりさんはその感覚がとても、立っている、というか、敏感で繊細で、そして強いのではないかと思うのです。それはとても良いのです。
レジスタンスのナオカさん
そしてナオカさんもオーディションを受けてくれて本当にありがとう。ひとつ、何かが繋がると、たくさん繋がっていきます。とっても嬉しいことです。ナオカさんはとっても考えこんで悩むことがたくさんなのだけど、スパンと迷わず声が出た時が、ひぐはとてもうれしくて。急いで何かをすることはないなと思う。焦らずに出した、そのひとつひとつは、とっても確実なんだと思う。
シンの橋本浩明さん
お久しぶりの橋本くんです。2020年のCOVID-19が始まりだす直前の『ラズベリーシャウト』以来です。彩雲リーディングはずっと出演し続けてくれて、何かと一緒に創作をしておりますが、コロナの間は色々イレギュラーな動きだったのもあって、Plant Mでは4年ぶりの橋本くん。シンは絶対に橋本くんなのだと思った。そこにいるようでいない。思いが強く存在している。うん、橋本くんです。
父の山田一幸さん
山田さんのお芝居を初めて観たのは、25歳を過ぎたくらいだったような気がする。こんなに長いセリフをどうして、その人そのもので、こんなにも、喋れるんだろうと思った衝撃の俳優さんです。衝撃を受けたからなのかは分かりませんが、Plant Mではいつも無茶ぶりばかりをして逆に衝撃を与えてしまっております。その人そのもの。というのが俳優としての山田さんを表している。
ドラァグ・ト書きのののあざみさん
今回はリーディングなので、ドラァグの役よりもト書きを重視して、やはりののさんだわ、とお願いしました。ト書きはその世界の土台となる。ト書きはほぼ詩である。というか、もしかしたら、私の戯曲そのものが詩なのかもしれない。最初は、ト書きをいくつかカットしたりしていたけれど、ああ、違うぞと気づく。全部読まなければならないのだと気づく。声が風景を作るから。ト書きのトーンというものがあるし、それは読み慣れていないとできないことでもあるから。
人間の奇異保さん
村上ハルさんが体調不良で降板となり、急遽、「人間」という人物をお願いした保さんから、「すべての役を読ませて欲しい」と要望があった。私は、ああ、これだと思った。保さん、教えてくれてありがとう。KUTO-10では2回もお世話になっているけれど、 Plant Mは初めての保さん。保さんと実奈ちゃんが舞台上でやりとりしている。不思議だなぁと思う。
地域と年齢を超えて、なんだかとても新鮮。
そうして私たちはひたすら読んだ。
ぐるぐる配役を変えて。
読み合わせを8回。
そうして気づく。
ここからは。
まだきちんと言葉には変換できていないけど、とにかく今の感覚を書いておく。
ここからは本当に私のための備忘録。
ふりかえれば。
『げきじょうのひ』という物語のはじまりをゆっくり始めたかったのだ。
書いた私自身がもっとこの物語を知りたかった、と言う意味でもあるのだろう。
Readとは、読む、声に出して読む、読み取る、知る、学ぶ、解釈する、理解する、見抜く、つかむ、分かる、予言する……
演出プランを考える時には確かにひたすら読む。
もちろん、俳優さんたちもおんなじようにお家でひたすら読んでいるのだろうけれど。
声に出して読む。それぞれの肉声を、耳から聞いて取り込む。
これは集まらないと一人ではできないRead。
贅沢な読み合わせだ。だけど、とてつもなく必要なことなのだと感じた。
声に出して読むことで、黙って考えるのではなく、Readしていける。私が書いた文字だけど、私さえも知らないことがたくさん見えない文字で書き込んである。それも丸ごと、読むのだ。
上演ではないんだ。
Readなんだ。
Readingなんだ。
上演とリーディングの違いはなんだろう。
※海外の劇場でのリーディングや、彩雲リーディングのような短期間企画などとは別として、あくまでPlant Mとしての、という意味で。
ふっと。
セリフを、覚えてはならない。
と、私は思った。
その時、なぜだかまだ理由はわからない。
ただそう思った。
だから、 「なぜ?」と私に問う。
なぜ? と、ノートに書いた。
私のノートはヘンテコな落書きだらけになる。
俳優がセリフを覚えるのは、頭で覚えるのではない。
細胞に刻み込まれていくように身体が記憶する。
と、私は思っている。
セリフとは、俳優にとってナンなのだろうと考える。
セリフを覚えるとどうなるんだろう?
上演に向けていつもの稽古ができるようになる。
自由に動ける。
セリフ、入ってるからね。
そうか、自由に、動ける……?
「セリフを覚えると(厳密には覚えて忘れると)、自由になる」
と、私はよく言う。
そして、あ、と気づく。
なぜと問いかけたノートを目の前に気づく。
セリフとは、その人物の肉体だ。
セリフを俳優の体に入れる行為というのは、同時にその登場人物の身体を作ることになる。
ああ、だから稽古の時にいつも使うPlant Mの方法論は肉体のことばかりになるんだ。
あ。
じゃあ、
それじゃあ、
リーディングって、
その登場人物が肉体を得る前のことをするんだ。
きっと、至極、当たり前のことを、私は、ハッと目覚めたように気づく。
当たり前のことを、新たなことのように鮮やかに感じる瞬間。
こういう感覚をどう言葉にしていいのか、いまだに分からない。
腑に落ちる、と言うことなんだろうか。
この本には何が書かれていて、
どう進んで、どこに行き着くのか。
この登場人物はどんな人で、何をして、どうなって、ここにいるのか。
戯曲のなぜを、読んでいく。
この戯曲は、何を大事にしているのか。
この戯曲の本質な何なのか。
それを、分析と解釈と言う。
『げきじょうのひ #1 序と云い切れズ』の戯曲に関しては、
・登場人物たちの罪がなんであるか。
・その罪の赦しはどこにあるのか。
・ 罪と赦しを超えた希望はどこにあるのか。
・登場人物たちがそれぞれいる時代と場所はどんなところであるか。
それらを、俳優たちに投げかけた。
その問いの応答は、本番である。
セリフは覚えない。
まだ肉体は作らない。
その前に、何が書かれてあるかを読み取っていく。
登場人物の、この人生で、
彼らは何を得て、あるいは何を失って、どこに辿りつくのかを、読み取っていく。
ココまでをやることを、私はリーディングと呼ぼう。
そしてセリフを覚える時には、これらの意味は一旦忘れて、ただの文字を入れるだけ。
まっさらな肉体で赤ちゃんが生まれてくるように、
まっさらなセリフを身体に記憶させる。
感情で覚えない。
意味で覚えない。
言い方で覚えない。
ただの文字として無感動、無表情に覚えるだけ。
そうしてまっさらの肉体(セリフ)と、分析と解釈を持って、生身の相手役の俳優たちと上演に向けての稽古をする。
俳優はセリフも分析と解釈もわかっている。
だけど、 登場人物は1秒先を知らない。
演劇は本当に不思議な芸術。
何度も稽古をするのに、いつだってお芝居の中身はファーストタイム。
全てを知っているのに、全てを知らない状態で体験する。
生身でやり取りすることで、分析と解釈の細かいところをもっと見つけていくのだ。
私は、またハッとする。
演劇は、人間の生のシステムがそのまますぎることに私は本当に驚くのだ。
だから私は演劇というものをやっているのだなぁと、納得してまた驚く。人間というものを知りたくて。
真理というものを知りたくて。
どうして音楽じゃなくて、美術じゃなくて、アイドルじゃなくて、ビジネスじゃなくて、
演劇なんだろうかという根本的な問いの応答も、ここにある。
と、私、一人興奮しているわけだけれど。
俳優さんは、いつだってココまでを一人でやってきて、稽古場に挑んでいる。
上演に向けてやるべきことを、分けて丁寧にしただけと言えば、それまでなのである。
今までやってきていることを、ゆっくり、分けて、試みているだけ。
だけど、私は再び演劇に出会いなおしたと感じてとても弾んでいるのだ。
そしてこれは、私の演劇にすぎない。
演劇全般のことを言っているわけでは決してない。
それぞれの劇作家たちや演出家たち、そして俳優たちも、スタッフたちも、きっと、それぞれの「演劇」がその人それぞれにある。それを探すために、たくさんの人が演劇ってものに携わっているんじゃないかと思う。
またひとつ、見つけられた。
20代の私には想像もできなかった演劇の風景が、私の中に存在する。
それがとてもうれしい。
風景といえば。
「私は知らない」という風景が見えることがある。
それは本番に多くみられるのだけれど。
今回は本番前の稽古の最中にそれは見えた。
確かに私から書いて始まった戯曲である。
日々の様々なことに触れ、ささやかなことにも影響を受け、何かを考え、何かを感じ、
そうして戯曲は書かれていく。
それは確かに私が書いたものであるけれど。
俳優の中に、私が書いたその世界というものが膨れ上がり、
言葉を話す俳優たちの方にその具体性がグッと大きくなっていく様を見ると、
私はとても嬉しくなる。
私が書いたものが、私のものではなくなっていくその瞬間がとても好きだ。
「私は知らない」けれど、そこに「世界」がある風景。
もちろん、演出もテクニカルも必須だけれど、
それを作ることができるのはまぎれもなく俳優たちなのだ。
この当たり前も、また鮮やかに腑に落ちる。
『げきじょうのひ #0 序と云い切れズ』は、
たくさんのことを発見することができた公演で、ほんとにね、興奮しちゃうくらい。
関わってくださったすべての皆さん、
観に来てくださった皆さん、本当にとってもとってもありがとうございます。
そして出演してくれた俳優の皆さん、ありがとうありがとうありがとう。
#1に向けて、終わって始まります。
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