島根雲南木次滞在制作✨『HOMETOWN-幸福な王子より-』ふりかえりと自分のための備忘録

読んで創って楽しもう実行委員会主催による、
『HOMETOWN-幸福な王子より-』が無事に終わりました✨
観に来てくださった皆様、本当にありがとうございました!
図書館での塗り絵企画が持ち上がったり、
オリジナルグッズをたくさん展開したりなどなど、盛りだくさんでした。 

さぁっとふりかえりを✨
 
今回はコーラスさんと一緒に創作でした。なんと雲南は9つくらいのコーラスグループがあると聞いてびっくり。 いろんなグループから参加してくださって、今回だけの特別な大畑&菅原コーラスチームが生まれました。実現してくださった実行委員会の皆さんに感謝です。ちょっとした連絡をするのにも本当に大変だったことでしょう……!
 
議員役に実行委員さんが4人も出演してくれはって、
さらに三瓶裕美さんと三瓶浩己さんご夫婦の出演、浩己さんは舞台初体験!!
 

ツバメの大原さんは「この形態になるとは……」と驚かれました。。。


王子の熱田くんは数年前に木次線のお芝居の時にもご一緒しましたが、
素敵高校生から、さらに素敵青年に成長しておりました。
根性と悔しさを持つことができるって、それって財産。もりもりお芝居して欲しいなと思う。

 
帰路の次原くんがぐぅんと成長✨以前とはきっと違うものを見ていると思う。
往路のいたがきちゃんは、ホントに突き抜けられる俳優。チャレンジと納得をスルーしない。
彼女の決断はいつも感動する。
 
 
臨月のかやちゃん。いっぱい悩んで考えて踏ん張る。繊細さはその何倍も強くなっていける証拠だろうなと思う。議員1の恵美さん。ぶっ込んでくるNo.1でした。久しぶりの舞台だったそうですが、そうとは思えないほどのぶっ込み感じで、本当に楽しかった!
 
 
今年もはじけていました、大畑センセ。
大畑センセの音楽と人柄が、この作品をとっても優しくしてくれていると思う。ありがとう。

 
ピアノの菅原先生。「翼をください」のはじまりのピアノで泣けてしまう。
誰が鍵盤に触れているのかって、とっても重要なんだなと思った。
ひぐは本当に無知でして、
 
「ピアノで、ババババーン(運命のこと)とお願いします!」
 
と、意気揚々と言いましたら、大畑センセに、
 
「ひぐちさん、運命は、普通はピアノで弾きません。あれはオーケストラなんです……」
 
な、な、なんですとー!!?
ピアノで弾くのはなかなかの負担だというのを承知で、弾いてくださいました。
ありがたやっっっ!!!

本当に勉強になりました。
 
コーラスさんの歌声が耳の奥でこだましてる。
歌っているみなさんがとってもキュートでした。
お芝居のラストでは、街の人々が王子にプレゼントを持ってくるシーンがあります。
コーラスさんが街の人々を演じてくれるのです。
初めは、持ってくるモノのほうが目立っていたのが、回を重ねるごとに、モノそのものよりも、モノを持ってくる人物が際立っていきました。

そういう、人間がパァッと輝く瞬間が、本当にすき。
コーラスさんは、歌以外のお芝居のこともたくさん演じてくれました。
ありがとうございます。 

そして今年もお世話になりました。
チェリヴァホールさん、本当にありがとうです。
 
そしてここからは、私の備忘録。

名作『幸福な王子』をベースに、雲南の町に幸福な王子が建っていたらどんな物語になるか。実行委員の皆さんに、「自分が住んでいる町の好きなところ、嫌いなところ」を聞き取り、それを戯曲に反映するというスタイルを試みた。

話を聞いて書く、というのは何度か体験したことはある。
のだけれど。 
なぜか今回は、私の心は妙な動きを見せた。
 
せっかく話を聞かせてもらったんだから……
町のためになるように……
実行委員の人たちが良いと思ってくれるようなものを……
聞いたことは全部反映しなきゃいけない、でも言いすぎてもいけない……
これもああして、あれもこうして……
頭をぐるぐる回して考える。 だけど正直、頭をぐるぐる回して考えて書いたものは、なんだか腑に落ちないものになった。とりあえず実行委員の皆さんに読んでもらう。さまざまな意見をもらう。正直、肯定的な意見ではなかった。
 
「いやだって」と言い訳したくなる気持ちと同じくらい、心から、「うん、その意見、分かるわ」とうなづく私がいた。
 
最後の意見にこんな言葉があった。
 
「これを見たら、議員の人が嫌な気持ちになりませんか?」
 
私はこの現象が、私の中で起こっているのだと気がついた。
正しいものを。
間違いのないものを。
人々に好かれるものを。
嫌われないものを。
だって町のためになるものを書かなきゃ。
だって人々のためになるものを書かなきゃ。
 
それらは私の「演劇の表現」には全く関係がない。きっと私は、「町のため、人々のため」と言いながら、批判されることを恐れて表現として最も大事な「本質と核心」に辿り着かないまま、初稿を書きはじめ書き終わってしまったのだと思う。そんなものは表現ではない。
 
「本質と核心」とはなにか。
 
それはやはり『幸福な王子』の物語の中にあった。名作には全てが書かれていた。迷ったら名作に戻るのが一番だ。『幸福な王子』って、とってもとっても嫌いだったのに、最終的になぜこの作品を土台ベースに選んだのか。選んだ自分の感覚は信じてみようとまた読み返す。「幸福」とはなんであるかを、この名作は突き詰めていたのだ。
 
 愛しいものの死を感じるこの痛みを、「幸福」と呼べるだろうか。
 
『幸福な王子』の本質と核心を、私はこう読みとった。
良いことだけを「幸福」にしない。
「幸福」をただのgoodな事柄に限定しない。
鉛の心なのに痛みを感じたのなら、それは「奇跡」であり、「幸福」でしかない。
例えそれが愛おしいツバメの死であったとしても。
銅像は感じることはない。
しかし人間は感じられるからこそ人間である。
それが痛みや苦しみや悲しみであったとしても。
生を丸ごとひっくるめて「幸福」とする。
それは角度を変えれば、同時に生は丸ごと「悲しみ」とも捉えられる。
昨年の宮沢賢治の作品にも同じ文脈を感じたことを思い出す。
 
良いものを。
正しいものを。
片側だけから見ることをやめてみた。両極端なものが混在するのが人の生だ、という「本質と核心」をつかみ取ってから、第二稿を書き始めた。
 
HOMETOWN―幸福な王子よりー』においての、「本質と核心」を言語化するならば、以下のようになる。 
 
故郷とは、愛おしいものとおぞましいものが共存するところ。
 
これは、「雲南」だけに限らない。故郷というものは誰にとってもそのようなものであることが多い。きっと私は、「雲南のこと」「この場所のこと」「この地域特定のこと」に、固執していたのだと思う。固執は視野狭窄を呼ぶ。
 
私はここには住んでいない。
住んでいるからこその苦しみを体験していない。
代弁者になどなれるわけがない。私ができることは、実行委員さんから聞いた言葉を、個人の話から普遍的なものへと昇華させることなのだ。 だから結果的にこの物語は「雲南だけのもの」というよりは、消滅するかもしれない未来を孕んでいる自治体に共通する物語になったのかもしれない。 
 
私にとって最も大事なことの一つとして、「本質と核心」を見つけられるかどうか。「雲南のために」「町のために」を手放したことが、この物語の進化の始まりだったのだと思う。 
 
人のため。
街のため。
誰かのため。
本当に心からそう思って、行動ができる素晴らしい人たちはたくさんいる。 
私はどうやらそうではない。 
人でなしだから。
人でないから人のことがホントのところなにも分かっていないのに、
何かをしようとすると、全然タメにならない方へと進む。

だからいつも思う。
どの現場でも。
誰と創作をしていても。
私とクリエイションをしてくれている人たちみんなに、本当に心から感謝したい。
 
ありがとうございます。
 
自分の演劇表現が、
結果として誰かの喜びや誰かのためになるならばそれは紛れもない僥倖。
だけど、それを目的にはできない。
結果はコントロールできない。
 
人とはなんであるかという真理の探究をひたすら続けるのが、私の演劇表現であるだけだ。
 

 

 









コメント