『楽屋ー流れ去るものはやがてなつかしきー』振り返りです❤️

無事に、本当に無事に終わりました。
ああ、本当にほっとした。
ほっとー!!!  

たくさん観に来てくださって本当にありがとうございます。
去年の『凜然グッドバイ』は初めての試みでもあったので、無料公演でした。
今年はなんと有料公演!
そしてなんと2回公演!!
本当にありがとうございます。
 
この企画が出来るPLATという劇場は本当に素晴らしきです ✨
PLATの制作者さんたちは、くるくると目が回る忙しさをめちゃくちゃ笑顔で乗り越え本当になにが必要かをガシッと掴んで、創作環境、観劇環境を進化させているのですね✨
PLATの劇場スタッフのみなさん、ありがとうございました。
万全の体制で、本当に感謝です。 

衣装の富永美夏さんの素敵なアイデアいっぱいの衣装を着たみんなは本当に美しかったです! そして濱崎さんの美しさと恐ろしさの舞台美術!ワクゾワッてするのが楽しい。
稽古が始まるずいぶん前にお二人と打ち合わせをしている時から、とっても楽しかったのです。始まる前からもう面白い。そうなるならば、こうしてみよう。ああなるならば、これもどうか、あれも、それも、と、みんなの頭の中が混じってどんどん広がっていくことが面白い。
 
 
仕込みが終わってからの今回の合言葉は、
「黙る、止まる」でございました。
これを最も気にしなければならないのは、ワタクシひぐちでございます。
「そうだ、あそこねぇ」とか言いながらずんずん歩いていきそうになります。
いけない、いけない、トムとジェリーのトムみたいになっちゃう。
ああ、この例えが分かるのはきっと45歳以上ね。あは。
 
黙る、止まる。
慣れたころが一番あぶない、あぶない。
黙る、止まる。 
じっと黙って止まって考える。
お芝居は考えなきゃならない。
ぱっと顔を上げて光を受けている時があればあるほど、
考えなきゃならない。
自分の足元にある奈落を。
 
 


その奈落を見るから、きっとまた顔を上げられるのだなと思う。
奈落を知らないよりも、奈落を知ったほうが、きっと豊かだと思う。
今回、わたしにとってふたつの課題があった。
もちろんひとつは舞台手話通訳と俳優の関わりをどう持てるか。
ふたつめは『楽屋』という名作を、現代のわたしたちがどう自分たちのものにするか。
わたしにとっての課題とは言うけれど、
結局は、手話通訳の方々と監修のおふたりとの共有や話し合い、
俳優たちが体現してくれることで課題をクリアしていったのだと思う。 

手話さんと俳優がリンクするところをたくさん見つけていけたのは、ゲネが終わったあとだった。監修さんたちが感じる違和感を、手話さんがどう動いたら解消できるのかを探る。
この時に、リンクが出来るのだと明確に分かった。演出と監修さんが一緒に探る作業の時間を後半に増やしていけば、もっとリンクできる瞬間を作っていけるのだと思った。

そして名作について。
稽古の中盤あたりで、女優Bのちかちゃんが言った。
 
「このセリフのまま(セリフの内面のまま)言うと、この(体の)状態になるねん」 

ああ、そうなのよと思う。それ。そこを抜けてみたい。でもだから名作なんだと思う。どうやったって、それは言い方を変えれば、誰が演じてもそうなる、こうなる。ならざるをえない。だからイイのだ。それでこそイイのだと思うけれど、
 
この4人の俳優たちだからこそ、を、やっぱり見つけたいと思った。
 
2022年のわたしたち。 

死んでいる。
生きている。
苦痛がある。
安らぎがある。
肉体がある。
肉体がない。
思いがある。
思いしかない。 

肉体があるからこそ、あらゆるしがらみと苦痛をその体で感じ、
それでもなおこの世で演じるCにとって、 

好きなところだけ演ることが出来る女優AとBがある意味、理想でもある。
けれど理想の稽古をするAとBは、役を、肉体を欲する。
ステージと奈落。
肉体と魂。
女優A・B 、意地悪い目で観察する。

というト書きには、羨望と渇望があるのだとわたしは思った。
崩れ落ちるCをそっと立たせていく女優Aと、
生きているんだろうと心臓に手を当てさせる女優B。
女優Cを支えているようにも見えるし、
肉体があるならば乗り越えていけという試練を再び与えているようにも見える。
羨望と渇望。
 
8月29日からはじまった稽古。
ほぼ10日間のお稽古で、名作の呪縛を俳優たちはすり抜けはじめた。
だから欲張りになる。
あともう1回本番を経験できればどうなったかナ。
肉体があるわたしは貪欲にそう思う。
ああ、それを見たいナ。 
本番でしかできない経験を、もっとたくさん経験したいナ。
演劇の公演は、重ねることで作品そのものを強くしていける。
 
しかし本番は始まれば必ず終わる。
人生と一緒ね。
もう明日が今日になった今は、
流れ去るものはやがてなつかしき。
もうなつかしい。
そして時間は止まらず流れる。
その代わり、永遠は自らの心の中に在る。
 
清水さん、本当に清水さんの戯曲は面白いです。
二十代のわたしは、戯曲そのものについてのこと、
本質的なことをなにひとつ清水さんに質問できなかった。
言葉としては全力で質問して、全力で話していた。
全力のわたしは本当に全力。
でも、本当に質問するには自分の確信が必要なのだ。
自分の思想が必要なのだ。
自分の本質が必要なのだ。
二十代のわたしにはそれがなかった。
もちろん、そのころなりにはあった。
あると、思い込んでいたのかもしれない。

それでイイのだ、と思う。
流れ去ったものを振り返れるナニかがあるなら、それでイイのだ。
20年かけて分かったことがあるなら、それでイイのだ。
そして60歳になったわたしはきっと40代のわたしを振り返って、
なにもわかっちゃいないと思うのだろう。 

経験と一言でいえばカタがつくものだ。
けれど、経験は流れ去る。
時間とともに流れ去る。
コトガラなど、どうでもいい。
清水さんと話したというコトガラは、流れ去っていい。
 
その時わたしはなにを感じたか。
なにを思ったか。
なにを考えたか。
それが自らの心に永遠に残る。

永遠に残るから、20年たった今もそれを見つめられる。
 
振り返りの最後に。
 
清水邦夫さん、ありがとうございました。
あっちで蜷川さんと会った時の第一声は、なんだったんだろう。

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