俳優の身体

身体ってなんだろな、と考える。
身体はまぁそりぁ身体なんだけど。
身体、体、カラダ。
 
俳優が呼吸をすると、身体が震えているのが見える。

「あらわれるげきじょう」という戯曲で。
去年、雲南と仙台で初演をして、
同じ題名だけど内容が違うという戯曲で。
でもどちらも同じセリフが出てくる。
 
「生きているものは震える」
 
どんな人間にも身体がある。
なかったらその人は存在しないし、ここにはいない。
いろんな身体がある。
個性それぞれさまざまに。
人間はだいたいみんな同じもので出来ているのに、
そのくせ、全く同じ人間は絶対にいない。
ナンでやのん。
ああ、不思議。
生まれてきたからには、なんかしら身体がある。
どんなカタチであっても。
この世を生きる乗り物みたいに。
皮膚は服みたいだと思った。
身体は乗り物なんだろう。
 
どうしたらこの身体を乗りこなせるんだろうか。
それは俳優だけに限らないことだけれど。
生きていれば身体が在るから。
さらに俳優はたくさんの人の人生を生きる。
だからといってスタニラススススススのことを言っているのはなくて。
 
もっともっと、単純で、
もっともっと、難しいことじゃなくて。
 
まだなんにもうまく説明できないからダラリとブログになんて書いちゃってる。
備忘録みたいに。

言葉は息で出来ていると思っていて。
息を吸って、吐いた息に言葉が乗っかっている。
息はプシュケー。
だから言葉は心とか魂を乗せてる。
けれど呼吸を意識せずとも話すことなんてとっても簡単に出来る。
だからこそセリフ言うときに呼吸を意識して、
と、
わたしは考えるんだろうな、
と、
考えて。
 
当たり前のことに気づく。
 
カラダを置き去りにしないために。
呼吸を意識する、というか、 呼吸を実感する。
カラダを駆け巡る血液を実感する。
細胞を実感する。
内臓を実感する。
神経を実感する。
 
俳優だけでなく、誰でも。
「この現代」を生きている人なら、
「この社会」を生きている人なら、
よくやってしまう。

カラダを置き去りにする。
 
身体は脳だけになって、
カラダが消える。
血液が消える。
内臓が消える。
細胞が消える。
触れているスマホの画面に置いた指先と脳だけになる。

よく動く体がイイということではなくて。
自分の体が20代のように動かないからより考えてしまうんだろうか。
今、どのようにこの身体が反応して実感しているんだろうかと、考えてしまう。
 
なにができるか、とか。
よくできる、とか、ではなく。
自分のこの身体をどれだけ実感できるのか。
それが、乗りこなすということに繋がるんじゃないかと、思ったりする。

まだなんにも明確な言葉にはならないから、
考えて、また考える。
ああ空が青いね。

 

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