noyRのプロデューサーつんさんから突然のLINEがございまして。
「樋口さん、最近何考えてますか」
なぜだかいろんな人とお電話する回数と時間がたくさんある日、があったりする。
そんなにも重なる日があるんだぁと。
「最近何を考えてますか」
なにかと。
いろんなことを。
考えている。
そしてやることといったらいつもの。
「あ、台本書いてます」
このあいだ西藤くんに託した10万年トランクの11話から20話のなかで、
以前から決めていた話や、リライトのお話、
西藤くんからのリクエストなど、
盛りだくさんでござまして、
でもやっぱり、
いま見ているもの、
いま考えていること、
いま感じること、
こそを書くものだと。
それ以外ならば逆に今書かずとも、とさえ思う。
trunk19の物語を読んだ西藤くんは、
「いまこれを僕はやっていいのかなと、思う」
とつぶやいた。
うん、そうだろうなと思う。
思わず書いてしまったTrunk19。
書いたあとで考え込む。
そうか。
そうだな。
いま周りには絶望だらけだから、
こんなときこそ希望を、と。
それが寄り添うことで、
それがいま必要で大事なことなのだろう、と。
本当にそうなのだろうと思う。
パソコンの前でじっと座って1日が過ぎ去った日があった。
元気になれるもの。
希望を見つけられるもの。
寄り添えるもの。
ばかりを、
考えて。
そうじゃないといまはいけないのかしら。
いけないのだろう。
ばかりを、
考えて。
心うろうろして日が沈む。
いま、自分に見えている世界はそうではないのに。
かといって自分自身が絶望しているわけではない。
かといって自分自身が希望を求めているわけでもない。
ただ、見る。
舞監の都さんに、「だって樋口さんは定点カメラだから」と言われ、
へーなるほどーそうだなぁ。
いま、自分がいる場所から見て考えること。
そこから少し先に見えるかもしれないなにかを想像をすること。
あくまでいま、自分がいる場所から。
だからやっぱりいつもと同じことをする。
うろうろした心がきちんと座る。
いつもと変わらない。
いつも見ている。
自分が立っている場所から見る。
自分の背景はきっと毎度毎度移り変わっている。
それが震災のときもあっただろうし、
何気ない日常のときもあっただろうし、
理不尽な怒りを背負ったときもあっただろうし、
いまはコロナウイルスそのもの、生と死に加え、
それによって多くの人たちの思考と日常と経済がぶるぶる震え揺さぶられている、
そこから見えるもの。
私たちすべての人間たちは、いま、被災している。
その渦中で思うこと、
自分が考えることは、
全て台本に反映されるのだろうと思う。
絶望を書き続けると希望にたどり着くと信じてはいるけれど、
それは多くの人を傷つけることでもあるかもしれない。
と、同時に、誰かひとりを救うかもしれないとも考える。
けれどそれは目的ではなく結果でしかない。
ただ衝動でキーを打つ。
いま、ここから見えるものを書くしかない衝動は、
誰のためでもないし、
自分のためでもない。
何のためなのか自分でも知りたい。
いまここから見える、
見えないものを見える文字にして書くとき、
すくなくとも、
いまここ、のためには書いていないのかもしれない。
まだ存在しない未来のためかもしれない。
指が動くままに。
書いてもいつ上演されるのだろう、ということは私にはさして問題ではなく。
例えば。
もし。
極端に考えてみる。
自分が生きている間に、
今までの状態での演劇公演を行うこと叶わなかったとして。
書くことをやめるだろうか。
やめられるだろうか。
「樋口さん、最近何考えてますか」
なぜだかいろんな人とお電話する回数と時間がたくさんある日、があったりする。
そんなにも重なる日があるんだぁと。
「最近何を考えてますか」
なにかと。
いろんなことを。
考えている。
そしてやることといったらいつもの。
「あ、台本書いてます」
このあいだ西藤くんに託した10万年トランクの11話から20話のなかで、
以前から決めていた話や、リライトのお話、
西藤くんからのリクエストなど、
盛りだくさんでござまして、
でもやっぱり、
いま見ているもの、
いま考えていること、
いま感じること、
こそを書くものだと。
それ以外ならば逆に今書かずとも、とさえ思う。
trunk19の物語を読んだ西藤くんは、
「いまこれを僕はやっていいのかなと、思う」
とつぶやいた。
うん、そうだろうなと思う。
思わず書いてしまったTrunk19。
書いたあとで考え込む。
そうか。
そうだな。
いま周りには絶望だらけだから、
こんなときこそ希望を、と。
それが寄り添うことで、
それがいま必要で大事なことなのだろう、と。
本当にそうなのだろうと思う。
パソコンの前でじっと座って1日が過ぎ去った日があった。
元気になれるもの。
希望を見つけられるもの。
寄り添えるもの。
ばかりを、
考えて。
そうじゃないといまはいけないのかしら。
いけないのだろう。
ばかりを、
考えて。
心うろうろして日が沈む。
いま、自分に見えている世界はそうではないのに。
かといって自分自身が絶望しているわけではない。
かといって自分自身が希望を求めているわけでもない。
ただ、見る。
舞監の都さんに、「だって樋口さんは定点カメラだから」と言われ、
へーなるほどーそうだなぁ。
いま、自分がいる場所から見て考えること。
そこから少し先に見えるかもしれないなにかを想像をすること。
あくまでいま、自分がいる場所から。
だからやっぱりいつもと同じことをする。
うろうろした心がきちんと座る。
いつもと変わらない。
いつも見ている。
自分が立っている場所から見る。
自分の背景はきっと毎度毎度移り変わっている。
それが震災のときもあっただろうし、
何気ない日常のときもあっただろうし、
理不尽な怒りを背負ったときもあっただろうし、
いまはコロナウイルスそのもの、生と死に加え、
それによって多くの人たちの思考と日常と経済がぶるぶる震え揺さぶられている、
そこから見えるもの。
私たちすべての人間たちは、いま、被災している。
その渦中で思うこと、
自分が考えることは、
全て台本に反映されるのだろうと思う。
絶望を書き続けると希望にたどり着くと信じてはいるけれど、
それは多くの人を傷つけることでもあるかもしれない。
と、同時に、誰かひとりを救うかもしれないとも考える。
けれどそれは目的ではなく結果でしかない。
ただ衝動でキーを打つ。
いま、ここから見えるものを書くしかない衝動は、
誰のためでもないし、
自分のためでもない。
何のためなのか自分でも知りたい。
いまここから見える、
見えないものを見える文字にして書くとき、
すくなくとも、
いまここ、のためには書いていないのかもしれない。
まだ存在しない未来のためかもしれない。
指が動くままに。
書いてもいつ上演されるのだろう、ということは私にはさして問題ではなく。
例えば。
もし。
極端に考えてみる。
自分が生きている間に、
今までの状態での演劇公演を行うこと叶わなかったとして。
書くことをやめるだろうか。
やめられるだろうか。
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