祭礼ワークショップいろいろ打ち合わせー!

高安さんがWHARFにやってきました!
岸本くんと3人で、

打ち合わせでございます。
これは2016年のときの祭礼で使ったものでございます。

今回は祭礼のWHARFヴァージョンになります。
ポストイットはもちろん使いますー!
ワークショップの打ち合わせをいろいろと。
神楽の舞はいろんな型があって、それの組み合わせだそうです。
岸本くんは石見神楽。
高安さんは浪速神楽。
神楽というても、土地によって本当に違う舞になります。
2012年から祭礼を続けていても、今でも驚きと発見がございます。
神楽と演劇のコラボというのはなかなか風変わりで、
たぶんマニアックなのでございましょうなぁ・・・

と、言ってみるけれど。

岸本くんも高安さんも、

「神楽は演劇的」と言う
そうか。
神楽は演劇と対極にあるようで、
だけど演劇の始まりは神楽にあるのだろう、とも思う。

下記は、岸本くんがFacebookにあげていた記事でございます。

/何かの行為を見ている人と見られている人の関係。
/舞手は容れ物である、だから常に空っぽでないといけない。
/パフォーマンスを見ている人は俳優に何を投げ入れるのか。
/神楽をやっている時と、俳優をしている時の違い。
/もともと奉納される歌舞として行われていた神楽を人前で行うということについて。
/体に染み付いた形、体の使い方のクセ、俳優の身体性。
/口伝で教えてもらったもの、物証がないから体に頼るしかない。
/神楽に「私」は必要ない。
/演劇に「私」は必要な気がしている。
/俳優が発する「私」が誰であるか。何であるか。
/神楽という人に教わったものを作品に“使う”ことは本当はいけないんじゃないか、神楽を現代劇や作品に取り出すことは神楽を私物化することではないか。
/芸能の所有者は誰か。
/儀式は何のため、誰のためのものであるか
/上演は何のため、誰のためのものであるか
/神楽は舞でもあるし音楽でもあるから、それらを分けて考えることはできない。
/毎年やっているのに言語化できないもどかしい事柄が山積み。言葉にした途端に、なんか違うってなる。
/相反する何かと何かがあって、全然怖くないし辛くないけれど、引き裂かれる思いがする。

高安さんと岸本くんが神楽を舞っているとき、
とても不思議な感覚になります。
そこで舞っているのは高安さんで岸本くんなのに、
自分じゃないかと思ったり。
舞っているのはふたりの人間なのに、
木や花を連想したり。

/神楽に「私」は必要ない。
/演劇に「私」は必要な気がしている。
/俳優が発する「私」が誰であるか。何であるか。

「私」とは?
いつも問い続けることが、祭礼には詰まっているような気がするのであります。


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